目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第56話 待って、きらり、忘れ物。

「雄也さん、私、来年の9月9日までは会えません」


「ごめん、僕も我慢する。ただ一目でも会いたかっただけなのに、きらりさんが目の前に現れて我慢できなくなっちゃった。そうだ、これルナからきらりさんへプレゼント」


 小さな紙袋を渡され、中を除くとCDと手紙が入っていた。ルナさんは留学、妊娠に加え、作曲家としても新たに頑張っている。それに比べて、柔らかく微笑む雄也さんとキスしたいと思っている自分に呆れた。


 これは自然に湧き出てくる感情。だけれども、私はアイドル。誰が見ているか分からない場でそんな事はできない。私の失態は『フルーティーズ』の失態。


「きらり? ここにもいないのか?」

林太郎の声が聞こえてくると共に周囲のひそひそ声がする。


「ドラマに出てくるみたいなイケメン御曹司。梨田きらり、実は超リア充じゃん」

「こんな風に探されて見たい! あー、私も彼氏欲しい!」


 私は自分が林太郎と恋人という事に世間ではなっていることに気がついた。そして、悲しい事にアラサーの痛いアイドルもイケメン年下御曹司が恋人なら憧れの的らしい。実は人の目が気になって仕方がない私はここで自分でも驚くような選択をした。



私は雄也さんを横目に、私を探している林太郎に駆け寄る。

「ごめん。探してた?」

何を言って良いのか分からない。今の発言は林太郎に向けたものではなく周囲に聞かせる為の言葉。

「⋯⋯探してたよ。もうすぐ出番だし」

 林太郎はチラリと自動販売機の方に目をやった。そこにいた雄也さんを見たのかもしれない。非常に不機嫌な声色。



「すみれの花束⋯⋯」

 私は林太郎の持っている花束を握る。テーマパークで売っている訳がない。秘書にでも近隣の花屋に買わせに行かせたのだろう。


「『ささやかな幸せ』? すみれの花言葉。俺には与えられないって、きらりは見切ってる。ささやかな幸せどころか、本当はうんざりする程の幸せを感じさせたい。それくらい好きなんだけどね⋯⋯」

 私の表情を見ないように林太郎が私の手を引く。周りからは黄色い歓声。


 交際報道があった私と林太郎の密会現場を目撃したとばかりに、フラッシュを浴びている。



「今日の『フルーティーズ』のパフォーマンス、全力を尽くしますね。為末社長」

 私は林太郎にしか聞こえないように囁く。自分でも彼のような誰もが惚れそうな年下イケメンを袖にしている状況が腑に落ちない。きっと、周りは私と彼が離れたら私が飽きられたと騒ぐだろう。本当に人の目ばかり気にしている自分が嫌になる。雄也さんに惹かれているはずなのに、林太郎が現れると彼のことしか考えられなくなる。


「全力を尽くすんだぞ。うちのイメージキャラクターなんだから」

 私は林太郎が無理して微笑んでいるのが分かってしまった。私と雄也さんのやり取りにいつ気がついたのだろう。自信家な林太郎にはいつまでも、自信満々でいて欲しい。だけれども、私の前だと急に不安そうな捨てられたような子犬のような目をする彼。策士の彼だから演技かもしれない。それでも、私は林太郎にそんな顔をして欲しくなくて、気がつけば彼のネクタイを引っ張り引き寄せていた。



 林太郎が私の動作に目を丸くしている。私は頭を空っぽにして、今したい欲望のままに彼の唇に軽く自分の唇を寄せていた。


 その瞬間、周囲から歓声が分かる。自分でも殆ど無意識かでしてしまった行動に驚いている。私は思わず雄也さんといた自動販売機の方を見る。そこに人影はなく、なぜかホッとしてしまった。


(私、何がしたいの? これじゃ、どっち付かずの二股女じゃない)


 アラサーで長く付き合った彼氏から捨てられて私は迷走している。急に今まで出会ったこともない2人のイケメンからアプローチされて知らずに調子に乗ってるのかもしれない。


「為末社長! 出番なので失礼します」

 私は眼前で珍しく固まっている林太郎を放置し、3人娘の元までダッシュした。自分でも自分の感情がよく分からない。理性的に過ごしたいのに、今までになく本能的になってしまっている。アラサーで崖っぷちの癖に、ニンジンを見せられて涎を垂らし理性を失っている気がした。



「待って、きらり、忘れ物」


 林太郎が企みを含んだ表情で微笑む。私は気がつけば彼にキスをされていた。公衆の面前でそんなことをするなんてという理性が働かなくなるくらい、気持ち良いキス。ここで彼を突き放したら周りの期待に反するだろうなどという言い訳を作り、私は彼の首に手を回していた。先程まで、雄也さんとキスしそうなくらい近かった癖に私はいつからこんなビッチ女になったのだろう。それでも、周りの期待にこたえなければならないという私の強迫観念が私を突き動かしていた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?