机の上に紐によって纏められたチクリンの束がある。これを最初に手渡された時に何故、チクリン?と疑問が頭に浮かんだ。騎士が語る『女神五ヶ条』というものを聞いてようゆく理解したくらいだ。
女神が嫌いという理由で紙類の使用を禁止にするところに『女神教』の異質さが垣間見える。
「本当に強くなれるのか?」
他人事のように話してはいたけど、正に僕も当事者の一人である。騎士の熱い勧誘と、その姿と共に見え隠れする友達の幻影。押されに押されたあげく、僕は『神聖女神教』に入信していた。
信徒の一人となった訳ではあるけど、残念ながら僕は信仰心というものを持ち合わせていない。女神に対する感謝がない訳ではないが、友達や騎士のように身を捧げてもいいとまでは思わない。
僕にとって重要な事は、女神教に入信し祈りを捧げれば僕は強くなれるのか、ということだ。正直に言って騎士が語る話は半信半疑もいいところだ。女神様に信仰を捧げる事で強くなった? 元々騎士として鍛錬を積み剣の腕を磨いてきたからじゃないか? 女神教のお陰じゃなくて自身の努力の結果ではないのかと、どうしても疑問に思ってしまう。
『聞こえますか?』
その声が聞こえたのはチクリンの束を紐で纏め、ダメ元で女神に祈りでも捧げてみようかと考えた時だ。頭では分かっていた。女神に祈ったところで強くなど慣れないと。僕よりも弱い友達の存在が僕に現実を見せる。思わずため息を吐いてしまった。
『聞こえていますか?』
声が聞こえた気がした。聞き覚えのない女性の声。いや、違う。一度だけ聞いた事があるかも知れない。僕はこの声の持ち主を知っている。
自分の部屋を見渡して見ても声の主はいない。幻聴? 女神の事を考えていたからついに、幻聴まで聞こえてきたのか? あまりにバカらしく自嘲気味に笑えば静かな部屋に僕の声がよく響いた。
『愛しい我が子。世界を救う救世主となる強き子。アレクセイ⋯私の声が聞こえていますか?』
また、聞こえた。今度は空耳なんかじゃない。幻聴なんかじゃない。確かに僕は聞いた。僕を呼ぶ⋯女神の声を。
世界を救う救世主?僕が? 冷静に言葉を噛み締めるとその声の持ち主が女神ではないような気がしてきた。僕は弱い。決して強くなどない。こんな僕が世界を救う救世主となる?
冗談でも言っていい事ではない。幼気な子供に夢を語るのとは違う。僕はもう大人だ。甘言に惑わされるほど僕の心は弱くない。
「誰だ?」
僕に話しかける存在は女神ではないと、否定するように言葉を紡ぐ。睨みつけるように部屋を見渡しても誰もいない。人の気配すらない。どこから声がしている?
『良かった。私の声が聞こえたのですね。我が子に届いて良かったと心から思います。アレクセイ⋯我が子の疑問にお答えしておきましょう。私は人の子らが神と呼ぶ存在。名を⋯⋯ミネルバと申します』
ここでようやく気付いた。この声は耳を通って聞いているんじゃない。僕の頭の中に直接語りかけているんだ。そんな事は人には決して出来ない。
僕に語りかける声があまりに優しくて、脳が溶けるような美しい声に否定していた思いが消えていく。女神だ。この声の持ち主は黒竜と共に封印された⋯神と呼ばれる存在。
「ミネルバ⋯」
美しい声の持ち主に相応しい、綺麗な名前だった。口に出した名前が力を持つように、ただ名前を呼ぶだけで体が震えてくる。人の身で神の名を呼ぶのは不敬だとは咎められている気さえした。
『良かった。貴方に私の声を届ける事ができて⋯。これで私は最後の仕事を果たすことができる』
「最後の仕事?」
『既に知っていると思いますが私は魔王と共に封印されました。今、貴方に語りかける私は保険としてこの世界に残した残留思念のようなモノ。時間が経てば消えて無くなってしまいます。私が消えて無くなる前に私は貴方を導かなければならない』
頭の中に響く女神の声。何故、僕を導こうとする? 浮かんだ疑問に答えるように僕の脳裏に一つの風景が浮かび上がった。
これは、森? 鬱蒼と生い茂る大きな森。視界が変わる。これは地図? 赤い光が地図の北部を示している。見間違えでなければこれは僕たちの国だ。赤い光はそれから東へと移動し、地図上で何も無い場所を示している。それから二呼吸置く間に視界が元に戻った。
「そこに、今僕に見せた森があるのかい?」
『察しがいいですね』
意図は分からないけど、女神は僕を導くと言った。なら、今僕が見た地図⋯その光が指す場所が女神が僕を導こうとしている地。父さんと共に近くの町や村に行商に何度か出てはいるけど、見覚えのない場所だ。
『その地に貴方にとって最も必要なモノが刺さっています』
「僕に必要なモノ?」
『はい。今の貴方は大切なピースが一つ欠けた状態です。貴方の本来の力はこんなものではありません。世界を救う者⋯そう、救世主として貴方の力は』
僕の本来の力? 救世主?何を言っているんだと僕が聞き返す前に脳裏に一つの風景が浮かぶ。これは森の中? まるで実際に歩いているように景色が変わっていく。生い茂る木々を歩き、陽の光が遮られた暗い森の中を抜けた先にそれは見えた。
光に反射し幻想的に光る泉。僕の目を釘付けにしたのは泉なんかでない。その直ぐ近くにある、台座に刺さった黄金の剣。頭では分かっているのにその剣を求めて手を伸ばす自分がいる。体があの剣を求めている?
『見えましたね。あれこそが『聖剣フラガラッハ』。勇者である貴方の相棒にして、貴方を完成させる為の最後のピースです』
プツンっと視界が変わる。何時もの僕の部屋だ。見ているモノが変わったというのに僕の体は脳裏に浮かんだ剣を求めて動き出そうとしている。アレは僕の一部だ。僕の四肢と同じように欠けていけない大切なモノ。心と同じように無くしてはいけないモノ。
「分かった。王都の東だね」
『ええ。先程見せた場所に向かってください。王都の入口を出て真っ直ぐ東に向かえば到着するでしょう。それに道に迷わないように私が案内するので安心してください』
「分かった。それじゃあ行こうか」
部屋に入って直ぐに壁に立て掛けた剣を手に持ち、腰に差す。部屋を出ようと扉に手をかけた時に慌てたような女神の声が聞こえた。先程とは声が少し高い。喋り方も異なるものだったが、不思議とそれが女神の本来の声と喋り方だと認識できた。声を変えている?喋り方も?何故? 疑問が浮かんでは答えが出ずに消える。
それを数度繰り返している間にも女神から『今すぐ向かってはダメ』と制止の声が入る。理由は単純。今から向かえば森に入る前に夜になるから。
元々生い茂る木々によって薄暗い森な為、陽の光が完全に消えてしまえば先を見ることすら困難になるそうだ。その上、道中や森の中にモンスターがいるかも知れないと。陽が出ている時なら奇襲も受けにくく、モンスターの姿を先に発見する事が可能。
モンスターとの接触を避ける為にも今から向かうのではなく、翌朝にするべきだと説得された。僕が向かおうとしていたのは心の底から込み上げてくる衝動に任せていたからだ。女神の言葉で頭が少し冷静になった今、どうするべきか?⋯その答えは既に僕の中で出ていた。
「翌朝、向かうことにする」
『そうしてください』
ホッと安心したような女神が息を吐き、『また明日ね』と言葉を残し消えていった。消えていった⋯と表現したが元々この部屋にはいなかった? いたのか? どっちかは分からない。ただ一つ言えるのは僕の頭の中で女神の声がしていただけだ。誰も女神の姿は見ていない。
「明日に備えよう」
腰に刺した剣を壁に預け、父さんに明日の予定を伝える為に自室を後にした。明日は早くなるね。陽が昇ったら直ぐに家を出て向かおうと思ってるから。女神の正論に衝動は治まったけど、僕はあの剣が欲しくて堪らない。その理由は明言出来ないけど、あれば必ず僕が手にしないといけないモノなんだ!
父さんに事情を話せれば心底驚いていた。内容が内容だけに狂ったと思われても仕方ないと思ったけど、父さんは僕の言葉を信じ女神の導きに従ってくるといいと、背を押してくれた。ありがとう父さん。
いつ頃出るんだと尋ねられ、陽が顔を出した瞬間に家を出ると言ったら父さんに少し引かれた。
───翌朝、宣言通りに陽が顔を出した瞬間に家を出た。昨日はあまり眠れなかったのが原因だ。興奮していたから? どうだろうか。 心は落ち着いていたし、頭も冷静だった。なのに目を閉じても眠れなかった。
目を閉じて視界を遮断する事でより鮮明に、あの剣が僕の脳裏に浮かんだのが原因か。なぜ、僕はこんなにもあの剣を求めるのだろうか? 乾いた土が水を求めるように、僕もあの剣を求めているのかな?
『聖剣フラガラッハ』⋯あの剣を手にすれば僕は本来の力を取り戻すらしい。世界を救える力。勇者がどういう存在か正直分からない。けど、助けを求める人を救える存在になれるのなら僕は勇者と名乗ろう。家族や国、僕の大好きなこの世界を護れる存在になりたい。
『そこを左に曲がった方がいいですよ。まだ見えない距離だけどモンスターがいた形跡があります』
「分かった」
王都を出て歩いていると直ぐに女神の声が脳裏に響いた。早く出た事に驚いている様子だったが、先日の言葉通りに道案内をしてくれている。本当に助かっている。
───モンスターか。僕が怪物と呼んでいたモノを女神はモンスターと呼ぶ。それなら僕もこれからはモンスターと呼ぶように統一しよう。さて、今は関係ない話は置いておくとして僕にとって重要な事がある。
目的地までの道中は女神の道案内もあり、モンスターと会う事のない比較的安全な往路だった。その最中に女神と会話をしてモンスターによる被害の大きさを知った。騎士が牛頭のモンスターを連携して倒していたから、意外とモンスターの被害は少ないんじゃないかと勝手に思っていた。現実は違う。モンスターによって多くの人々が亡くなり、大怪我を負っている。
モンスターと戦える者は極一部の者たちだけのようだ。
『アレクセイ⋯勇者である貴方なら、助けを求めている人々を救えるわ。貴方こそがこの世界の救世主なのよ』
救世への道標。僕は女神に導かれ聖剣を手にして勇者となる。女神の期待に応えて、僕は世界を救おう。モンスターを倒し、女神と共に封印された黒竜も倒して、この世界の平和を取り戻す!それがきっと僕がこの世界に生まれた意味。
───後は真っ直ぐ進むだけです、という女神の声に従ってしばらく歩いていると遠目に木が見えた。アレが目的地! 視界に捉えて頭が理解すると、今まで抑えていた衝動にかられ体は走り出していた。女神が驚いていたが、今はそんな事は関係ない。一秒でも、一分でも早く僕はあの剣を手にしたい!
『森の中は暗いので走るのはやめておきなさい。迷いやすい場所だから私の案内に従って、よく確認しながら向かいましょう』
その勢いで森の中へと入ろうとすると流石に制止された。女神の言う通りなので、逸る気持ちを抑えて女神の案内通りに森を進む。
陽が少し指しているのが分かるけど、本当に暗い森だ。女神の忠告を無視して夜にこの森に入ったら迷っていた自信がある。
それから女神の案内で暗い森の中を進んでいると一際、陽の光が差し込む場所にたどり着いた。ここが、目的地。
「っ!!」
女神に見せて貰った泉を視界に捉えた途端の出来事だ。猛烈な風が僕の行く手を阻むように吹き荒れた。足に力を入れて飛ばされないように堪えるのがやっとだ。一歩前に進む事すら困難な強風。これが試練だと言うのか?
ならば僕はこの試練を乗り越えてみせる!!歯を食いしばり全身に力を入れて、強風に逆らうように一歩足を踏み出した。その瞬間、風が消えた。
僕の力を認めてくれた? 不自然に止んだ風にそんな気がした。
さて、僕の行く手を阻むモノはもう存在しない。真っ直ぐ前を見据えれば確かに其処に剣はあった。
「これが⋯聖剣!」
台座に刺さった黄金の剣。女神に見せて貰った時もそうだったけど、実際にこの目で見ると分かる。これは僕自身だ!無くしていたものを見つけたような喜び。欠けていたピースが此処にあった。
剣に吸い寄せられるように足が進んでいく。そして、剣まであの数歩の所までやってきた時に、光が反射して光り輝く泉に何かいる事に気付いた。
女性? でも人ではない。水を無理やり人型に留めたような形状だ。胸の膨らみから女性である事は分かる。美しい容貌をしているけど、不思議と劣情は湧かなかった。
彼女は自身を泉の精霊だと名乗った。名前はウンディーネ。彼女はこの聖剣の守り人なのだろうか?分からない。
「その剣は勇者にのみ抜く事が出来る。これまで何度もその剣を抜こうと訪れた者がいたが、誰も抜く事は出来なかった。其方はどうだ?この剣を抜けるか?勇者であると証明するか?」
「僕はこの剣を抜く。世界を救う為に、皆を護る為に⋯勇者となる!その為にここにきた」
「ならば抜くが良い。己こそが勇者である事を示すのだ」
そうだ、僕はこの剣を抜く為にこの地にやってきた。この剣を手にし、僕は大切な者たち守れる存在になる。勇者として、世界を救う!
大きく息を吐いた後に残り僅かな距離を歩いて詰める。緊張からか近い筈なのに遠く感じた。
改めて、台座に刺さった剣を見る。装飾は最低限のモノだけ。けど、一目でこの剣が特別かモノだと分かる。黄金の姿形がじゃない、目にするだけで感じる存在感。
嗚呼⋯確かにこの剣を抜ければ世界を救えるかも知れない。抜けるのか、この僕に?いや、抜くんだ!その為に此処にきたんだろ!!
「っ!!」
台座に刺さった聖剣を抜く為にグリップに触れる。その瞬間、剣から僕へと流れるようにナニかが僕の中に入ってきた。
不思議と嫌悪感はない。むしろ、心地よいと感じた。体の中から満たされていくような高揚感。それと一緒に溢れ出る力を感じる。まるで体が造り替えられていくようだ。先程までの僕とは天と地ほどの力の差があるだろう。なんという全能感。
これが勇者の力。僕の本来の力なのか? 体が震える。怯えなんかじゃない。武者震いでもない。ただ、嬉しいんだ。この力で人々を護れる事が!
『今の貴方なら抜けるわ。勇者としてこの世界を救って』
その言葉が最後の一押しだった。欠けていたピースがハマるように僕自身が勇者であることを自覚した。その自覚こそが最後の一押し。
手に握った聖剣が体の一部のように感じた。剣と一体化になったような錯覚すらある。
抜ける。それは確信だ。グリップを握る手に力を入れ台座から聖剣を抜く。あまりに簡単に抜けるものだから拍子抜けしてしまったのは内緒だ。
「今ここに、勇者が誕生した」
ウンディーネの言葉に応えるように聖剣を天にかざす。陽の光を浴びた聖剣が光り輝いた。
───僕はこの日、勇者となった。