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第49話:蝉時雨の下で

 稽古終わり。全員に院天堂の出場の許可と合宿の了承をもらったことを伝えて解散。

 資金面の条件は、今は伏せておいた。


 この後は柊との(恐怖の)買い物があるワケだが、少しばかり待ってもらおう。

 柊に「ちょっと待っててくれ」と一言だけ伝えて雅坂を呼び出す。できるだけみんなの目に着かないようにするのが難しい。


 しかし、雅坂は部員の中で最も着替えに時間をかける。稽古後でも髪とかしっかりしていることから、きっと他の女子の誰よりも丁寧に整えているのだと思う。そこを利用させてもらう。


 獅子堂、水瀬が着替えて道場に戻ってきたタイミングで俺が道場から抜ける。

 鉄の扉に閉ざされた更衣室。俺が前をうろつくのも良くないので、道場の脇でスマホをいじっている時だった。鉄扉が開く音がした。


「あら、剣一先生」

「おう、雅坂。時間いいか? ちょっと話があるんだ」


 声を掛けた瞬間、雅坂が微かに目を見開いた。

 何かを察したようだ。普段ならテンションを上げてホイホイ付いてくるところだが、こういうところの勘が異様に鋭い。獅子堂にも引けを取らない直感力だ。


 大丈夫だ、雅坂。俺は何があってもおまえの味方だ。

 心の中でそう唱えて、できるだけ優しい声色で校舎の外へ連れ出した。





「……先生、お話とは」


 一つ外への扉を開ければ、蝉の大合唱が容赦なく頭上から降り注ぐ。

 あまり大きな声で話したくはないのだが、これだけ喧しいと声のボリュームは上げなくてはならない。だから俺は日陰で蝉から遠ざかる別校舎の裏側を選んだ。ちょうど俺の車を停めてあるところだった。陽射しが厳しいってのもある。女子に日焼けは大敵だしな。


「そうだな……」


 雅坂の状況を考えるのなら、いきなり核心に触れるのは避けたい。

 なので、少し遠回りをすることにしよう。真夏の空気は一度呼吸をするだけで肺から汗をかきそうになるが、仕方ない。


「雅坂は、どうして剣道に興味を持ってくれたんだ?」

「え……何故って、ワタクシは剣一先生のことを愛しているから──」

「そうじゃなくて」


 雅坂が少しだけ拗ねるように頬を膨らませた。言わせてほしかったらしい。


「だとしてもだ。梅雨から夏場に掛けての稽古で分かっただろうが、剣道は臭い、痛い、暑いと人の嫌う要素がめちゃくちゃ詰まっている。まず全く知らない人がやってみようとは思わないんだ。幼いころからもう生活の一部として自然に組み込まれていたヤツらは別だがな」


 獅子堂も水瀬も柊も、きっと汗とか汚れとかを気にしない幼少期から剣道をしてきた。

 そういう、人生に剣道が常にくっついている人間にとっては、高校でも剣道をやるというのは普通で自然なことだ。逆に、剣道をやめることが違和感で仕方ないはず。


 だが、雅坂は違う。

 高校という、人によっては人生で一番楽しいといっても過言ではない時期。

 お洒落をして、色んな新しいものに触れて、世界がバラ色のように見えるだろう。


 そんな人生で脂が乗っている時代を、こんな未知の世界──それもよりによって剣道──に費やそうとするのは、どう考えても普通じゃない。何かしらのきっかけが必要なのだ。剣道という、華の女子高生には到底オススメできない武道を選択するだけの。


 それが雅坂は俺だというが……それだけで輝かしい高校の時間を使おうというのは、俺の中で些か腑に落ちていないのだ。剣道をしようという心は嬉しいけどな。


「人生で全く剣道と関わりのなかった人間が、いきなり高校で剣道をしようというのはあまりにもハードルが高い。特に女子にとっては」


 雅坂は何も言わない。真剣な表情で黙ったまま俺の話を聞いている。


「何かしらのきっかけがあったはずだ。たとえば──身内が剣道をしていた、とか」

「先生」


 そこまで言って、雅坂が真剣な面持ちのまま口を開いた。


「ワタクシ、回りくどい口説き文句は好きではございませんの」


 ……ああ、いつもどストレートでど真ん中一直線だからな。分かるわ。

 どうやら、何を言われるかは分かっているらしい。雅坂も腹を括っていたようだ。


「悪い。いきなり言われるのも嫌がるかなと思った」

「お心遣い、ありがとうございます。ワタクシ、先生のそういうところが好きですわ」

「隙あらばぶっこんでくるなぁオイ」


 二人してひとしきり笑った後、雅坂が背筋を伸ばして、


「──ご存じなのですね、ワタクシの姉のことを」


 やっぱり、雅坂はどうして呼ばれたのか、何の話か、全て分かっていたらしい。


「ああ。今朝方、理事長からな。四月から不登校だと。元々、剣道経験者らしいな」

「はい……ワタクシの姉、雅坂 蓮は、小学生から中学二年生の途中まで剣道部でした。ワタクシが剣道部に入ろうと決意した理由の半分は……お姉さまの愛したものを、ワタクシも知りたいと思ったからなんです」


 中学二年生の途中というと、おそらくだが柊と獅子堂にも関わりがあるのかもしれない。


「姉は今も剣道をしているのか?」


 ふるふる、と雅坂が首を小さく左右に振った。


「やめちまったのか。どうして……」

「それは……」


 とたんに雅坂の口が重くなった。同時に、俯いてどこか苦痛めいた表情を浮かべた。

この顔は知っている。言わなければならないことだけど、どう言えばいいのか、そもそも言うことすらひどく苦痛である時の表情だ。


 おそらくだが、姉の蓮が不登校になった理由と、剣道には深い関係がある。

 できればそこの部分も詳しく聞けたらと思ったが、非常に心理的に脆い部分なのだろう。

 この場であまり深堀りしてやるべきではないな。


「分かった。言いにくいんだな。なら無理に言わなくていい」


 雅坂の肩にそっと手を置く。


「姉ちゃんに会いに行こう。そんで、その時に話を聞こう。俺も協力する」


 形の良い眉を八の字にしながら、不安そうな顔で見上げる雅坂。

 瞳が潤んでいた。瞼も震えている。今にも泣き出しそうだった。


「大丈夫だ、雅坂。一人で抱えなくていい。俺がいる。剣道部の仲間がいる。みんながみんな……どこかしらの痛みを抱えて剣道してんだ。だから、おまえの心も分かってくれるさ」


「せ、先生……」


 微かに雅坂の表情から力が抜けたような気がする。


「姉に、また剣道してほしいんだろ?」

「はい。ワタクシ……お姉さまといっしょに、剣道がしたいですわ」

「じゃあ、俺に任せろ。何とかしてやる」


 何の根拠もない見栄だったが、それでも雅坂は柔らかな笑顔を見せてくれた。


「ありがとうございます、先生。ワタクシやっぱり……あなたのことが大好きですわ」

「もうええっちゅーねん」


 裏手で空気を叩く。遠くから聞こえる蝉時雨を掻き消すように、俺たちは笑った。


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