柊と二人で追いかけるが、人ごみのせいでなかなか追いつけない。雅坂の身体能力は普段の周囲の連中がすごすぎるから目立たないが、決して低い方ではない。
むしろ、幼少期からの習い事のおかげで色々な運動への応用が利きやすいはずだ。
「先生……ッ」
後ろから柊の声がした。しまった。雅坂を追いかけるのに集中して、人ごみのせいで柊に気を配ってやれなくなっていた。「柊ッ」と声を掛けると、
「私は大丈夫です! 雅坂さんを追ってください! すぐ行きます!」
声が飛んできた。「すまない!」と返事して先の雅坂を追う。
雅坂姉がリングから続く控室へのドアを開けようとした時だった。
「お姉さまッ!」
息を切らせた雅坂が、汗を拭おうともせずに姉を呼んだ。
ドアに手を掛けていた雅坂姉の動きが止まった。
俺がようやく二人に追いついた。雅坂は膝に手を付いて肩で呼吸を繰り返している。
「お姉、さま……やっと、会えました、わ……」
乱れている髪を無視して、雅坂が姉の背に声を掛ける。
「……」
姉が振り向いた。
彼女の目を見た瞬間──喉元に刃物を突き付けられるかのような錯覚を覚えた。
あの目。覚えがある。獅子堂だ。初めて会った時、暴走する原付から俺と教頭を守ってくれた時だ。研ぎ澄まされた刃のような目。眼光だけで肝が冷えるような、あの目。
雅坂と、傍に立つ俺を見た雅坂姉は、
「志保……パパ活するなら場所選びな。いいホテル教えてやるから」
なんてことを言い放った。
「──は?」
久々に会ったであろう妹に対しての第一声が、それか?
背筋が凍った。「久しぶり」でも、「どうしてここにいるんだ」でもなく。
この一言だけで、彼女が一体どういう境遇で生活しているか垣間見えた気がした。
雅坂も言葉を失っている。久々に会った姉からこんな言葉を浴びせられたら誰でもそうなる。
周囲の喧騒とは切り離されたように、ここの一画だけが静まり返っていた。
しかし、雅坂が拳を握り、
「お姉さま、今までどこにいたのですか」
「え? ここで金を稼いで、ネカフェ暮らし。活躍すれば金がもらえるからね。客の数が少ない日は別のことで稼いでた」
「別の、こと?」
「うん、パパ活」
平然と言ってのけやがった。
笑顔で、さらりと。
その異常性に頬が引き攣った。
「ヤバいヤツはヤバいけど、ちゃんとしたのを引けばそこそこもらえるんだ。最近、見分けがつくようになってきたかな。志保も隣のヒゲのおっさんからもらってんじゃないの?」
「そんなのじゃありませんわ」
珍しく、鋭い剣幕で怒気を含みながら雅坂が言い返した。
今までで一度も見たことのない姿にぎょっとする。
「おぉ、怖い。不良の高校に染まってきたかよ」
ちっとも怖がる素振りを見せず、飄々と言い返す姉。
コイツに対する得体の知れない恐怖が腹の底から手を伸ばしてくる。
「先生……」
すると、柊が俺たち追いつく。ただならぬ雰囲気に唾を飲む音がした。
「……おっと、そっちも三人なんだ」
柊を見て雅坂姉が微かに眉を動かした。
「何か言いたいことがあるなら、出場しなよ。ボクももう一稼ぎしたい。リングの上でボクに勝ったら、なんでも答えてあげるからさ」