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第60話:激昂

「……先生」


 一人残された雅坂に「すまん」と言い残すことしかできない。

 ……どれだけ贔屓目に見たって、雅坂が姉の蓮に勝てる要素はないだろう。

 窮地から一気に五分まで状況を覆した雅坂姉に観客が声援を投げかける。


 雅坂は完全に孤立してしまった。

 ダメだ。この勝負はもう──。

 と思って、目を閉じてしまった時だった。


「お姉さま。それでもワタクシは、諦めませんわ」


 雅坂が、凛とした表情で模造刀を中段に構えた。

 ……おまえ、こんな状況でも諦めてないのか。柊と俺が立て続けに破られ、実力差も天地ほどあるというのは痛いほど分かっているだろうに。


 いや、そうだ。そうだったな。おまえはどんな時だって諦めることをしない。

 その不屈の魂こそが、あの日、俺たちの首の皮をつないだのだから。


 全く、よくねぇや。下手に年を食うとこういう時にすぐ投げやりになっちまう。


「先生」


 先にリングから降りていた柊が俺に声を掛ける。ヘッドギアを外していた。


「雅坂さんを応援しましょう」


 そう言う柊の表情もまた、諦めていなかった。

 かつて雅坂に一杯喰わされた柊だからこそ、雅坂は諦めないと誰よりも知っている。


「ああ。そうだな。決着がつくまで、俺たちは──」


 諦めてはいけない。そう言おうとした時だった。


「……、…………、は?」


 雅坂の構えを見た姉の蓮が、零れ落ちそうになるほど目を見開いていた。

 まるで、激しく動揺しているような。


「なに、それ、おまえ。え、剣道? え?」


 覚束ない単語を並べる姉の蓮。心なしか顔の皮膚が引き攣っているよう見える。

 どういうことだ? 何故、蓮はああも動揺している?


「はい……剣道です。ワタクシは、あなたの愛した世界を知るために




「ざっけんじゃねぇよテメェッッッ!」




 雅坂が姉に想いを伝えようとした瞬間、リング全体を震わせるほどの咆哮が轟いた。

 ロープが揺れる錯覚まで見えた気がする。さっきまでガヤを飛ばしていた観客も、思わぬ怒号で一気に静まり返っていた。


「なんでだよ。なんでおまえが剣道してんだよ。ダメだろそりゃ。何でもボクより後から始めて全部かっさらっていったクセにさぁ、ボクの大事にしている剣道まで奪ってくのかよ、なぁ」


 声が乱れている。怯えるように、怒るように。模造刀を握っていない方の手で顔を覆い、全身をガタガタと震わせていた。


「違いますっ! ワタクシは──」

「何も違わねぇだろうがよォッ! 勉強も、スポーツも、人も何もかも! 何もかもに恵まれてんだろォが! なのに、それ以上何を求めるんだよ! おまえは何で剣道やってんだよ! そんなボクを馬鹿にして楽しいのかよ!」


 飄々としたあの態度が見る影もない。地獄のエンマ様だって裸足で逃げるであろう剣幕に、会場中が息を飲んでいるのが分かった。


「剣道を奪われたボクに向かって、剣道振りかざして楽しいのかって聞いてんだよッ!」


 蓮が疾走する。先の俺や柊に見せた速度とは比にならないほど加速して。


「お姉さ──」

「おまえさえいなければ──」


 鈍い音が轟いた。雅坂の持っていた模造刀が一撃の元に手から叩き落とされる。

 無防備な体が晒される。雅坂の貌が恐怖に染まった。


 俺の背筋が警鐘を鳴らした。一切逆らうことなく、ルールを無視してリングに駆け上がる。


「ボクの前から、消えろッ!」


 下からの切り上げ。剣道に全くない動きだ。雅坂が出小手を狙えるワケがない。


「やめ──」


 俺の制止も間に合わず、ヘッドギアも弾き飛ばす威力の一撃が雅坂の顎を跳ね上げた。

 背後のロープへもたれかかるように倒れる雅坂。マットに後頭部を打ち付ける前に、俺の腕が間に合った。


 同時に鳴り響くブザー。モニターに表示される白①という文字。

 俺たちは蓮一人に、叩きのめされてしまった。


 観客が大本命の勝利に湧く中、俺は腕の中の雅坂に声を掛ける。


「大丈夫か、雅坂……」

「は、はい。ありがとうございます。ちょっと首が痛みますが……」


 おそらく鞭打ちだろう。あれほど勢い強く顎を跳ね上げられたら筋を痛めるに決まってる。

 雅坂の目の焦点が定まってくるのと同時、顔を上げて姉を見つめた。


 俺もリングの中心を見ると、眉間にシワを寄せて鬼の形相をしている蓮がいた。

 荒々しい呼吸を繰り返し、今にも飛び掛かって来そうだった。


 握る模造刀が軋む音を立てている。雅坂を庇うように左腕を広げ、後ろに下がらせると、


「……」


 俺と蓮の間に、柊が立った。


「もう試合は終わりました。あなたの勝ちです。十分でしょう。これ以上続けるというのなら、ルールを度外視してでもお相手しますが」

「邪魔すんなよ、まとめて叩きのしてやろうか?」


 空気に火花が散る。二人ともヘッドギアを外し、模造刀の先端を微かに動かした。

 息が詰まる。今、互いが睨み合っているのは間合いのせいだ。柊の右片手上段は、さすがの雅坂姉といえども先手を取られるのだろう。だからこそ踏み込めない。


『当たれば一本』という剣道とは違ったルールだからこそ俺たちは今回後れを取ったが、その枠線が無くなれば有利不利は覆る。柊はそれが分かっているからこそ、自分からは手を出さずに雅坂姉を牽制しているのだ。


 剣道の土俵なら、おまえを斬れるぞと。


「……うぜぇな」


 間合いの牽制、睨み合い、そんな緊迫した膠着状態を全て蹴散らすように雅坂姉が腰を落とす。疾走の準備に入った。柊が警戒を引き上げる。俺も模造刀を握り直す。



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