柊が背後で息を飲んだ。信じられない、と言った反応だろう。柊の家も理事長との関係がまぁまぁアレなのは知っているが、それでも柊が好きなことを奪おうとはしなかった。
だが、雅坂の家は違う。
容赦なく、娘の愛した剣道を剝奪した──。
「ボクたちの父、雅坂
出てきたワードに危うく噴き出しかけた。
「……ま、マジか。超すげぇな」
私立高校でバイトみたいなことしてる俺とは天地の差だ。
っていうか、院天堂って今度俺たちが出る大会の主催じゃねぇか。
「勉強がどうのこうの、習い事がどうのこうの。鬱陶しいったらありゃしなかった。それでも必死こいて頑張ってたんだよ? お父サマのご期待に応えるためにね」
また水を喉に流す。乱暴に口元を拭った。
「でもダメだった。ボクは好きなことじゃないと全くやる気が出なくてね。他はてんでダメだったけど、剣道だけは頑張れた。結果も出てたし、やってて楽しかった」
けど、と彼女は言葉を強め、ペットボトルを握る。ぐしゃ、と鈍い音が響き渡り、彼女の瞳が怒りに燃え上がる。
「でもある日、親父は言ったのさ。ボクに剣道をさせているのはボクの性根を直すためでしかないって。剣道以外で結果を出せてなかったボクは──親父に剣道を奪われた」
自嘲めいた笑みと共に、蓮がペットボトルを手放す。空しい音を立てて壁にぶつかり、足元へ戻ってくる。それを忌々しげに蹴り飛ばしてから、蓮は自分の髪をかき上げた。
「ゲームばっかりする子どもにゲーム禁止令を出すようなものさ。それで勉強すると思ってやがる。ンなワケねぇだろ。別にサボってたワケじゃない。こっちだって良い成績は出したかったし、習い事だって熟してみたかった。でもできなかったんだ」
「そりゃあな。向き不向きはあるし、好き嫌いで分かれてくるだろう……」
「さすが大人だね。おべっかは上手だ」
馬鹿にした顔で吐き捨ててくる。こんなに言われて嬉しくない褒め言葉はねぇな。
「そんでどんどんキツくなってく日々に限界が来た。ボクは親父から逃げたんだよ。日の当たらない地下でせせこましく金を稼いで暮らすのがお似合いのモグラさ」
自傷めいた言葉を止めることができない。
「特にキツかったのが……志保、おまえだよ」
突如として志保に矛先が向いた。雅坂がぎょっとして目を剥く。
「親父のお気に入り。習い事も勉学もボクより後から始めたクセに全部完璧に熟して、親父からの愛情を一身に受けた天才。どうだよ? 逃げた出来損ないを見下ろして、ええ? 気分はどうだって聞いてんだよ」
そうか──。
ピアノの全国コンクール出場、成績も常にトップを維持し続けている。さらには(表面上は)品行方正であるから教師陣の受けもいい。それが雅坂 志保。雅坂 蓮の妹だ。
反面、姉の蓮にはそういった輝かしい面がないのかもしれない。剣道が唯一誇れる部分だったのかもしれないが、剥奪されてしまった。
自分のアイデンティティを奪われた上に、自分にとってのコンプレックスだった妹が剣道という自分の唯一誇れるものを始めた。
これで思うところがない、というのはありえないだろう。
「志保、おまえは天才だから、すぐに凡人のボクを追い抜くさ。いいよなぁ、なんでも思い通りに進んで、結果出して、周囲からチヤホヤされて華やかな道の上を歩けるおまえはさぁ。その影にいるボクがどれだけ惨めか、知ったことじゃないよなぁ」
だからボクの気持ちも考えず、剣道に手を出せるんだろ。
蓮がそう言った瞬間、雅坂の目が涙で濡れ始めた。
そんな妹に、姉は容赦なく近付き、胸倉を掴んで、
「ボクはな、志保。おまえが大嫌いなんだよ」
その発言が、トドメだった。
今までなんとか堪えていた雅坂の目尻から、一筋の涙が零れて……、
「あ……雅坂ッ!」
姉の手を払い、部屋から出ていってしまった。
「おい、おまえ言い過ぎだろうが! 妹だろ! 大事な家族じゃねぇのかよ!」
「家族だからって、血がつながってるからって、自動的に心までつながるワケじゃないんだよ。アンタはさぞ幸せな家庭で暮らしてきたんだろうさ。そんな温室育ちのアンタに、家族という名の鎖の冷たさが分かるワケないんだよ。だから首を突っ込んでくるな」
氷を目に押し付けられたかのように冷たい声。有無を言わさぬ圧力だった。
確かに、俺の家庭環境は普通、と言えるものだった。
雅坂の家がどれだけの事情があるかなんて、推し量ることもできない。
だから姉の蓮は言うのだ。世界が違う。理解なんかできるワケがない。
理解できないクセに、分かろうとするなよ、と。
「……」
正論だ。俺は雅坂の抱える問題を、所詮上っ面しか知らない。
合宿費用とか、理事長の評価とか、そんな自分勝手なフィルターを通してコイツらを見ていた。姉妹の深い事情を俺は知らなかった。
ああ、だからか。
雅坂があの時、俺に言い淀んでいたのは。
クソが。最低だ。
俺は、雅坂の好意に甘えて、彼女の心を蔑ろにしていたんだ。
「先生」
歯噛みする俺を見かねたのが、柊が声を掛けてきた。
「雅坂さんを追ってください」
「で、でも……」
姉の蓮はどうするのか。
「大丈夫です。姉の蓮さんは私に任せてください」
「……」
力のこもった柊の目。何か考えがあるのだろうか。
生徒に丸投げするなんて教師失格だが、ここはやむを得ないか。
「すまん、何から何まで……買い物も、結局台無しにしちまって」
「気にしないでください。先生のお役に立てて嬉しいです。それよりも、雅坂さんを」
「ああ、ありがとう」
後ろ髪を引かれる思いだったが、柊を信じるしかない。
俺は振り返らず、雅坂を追ってビルを出た。