夕立が降ってきた。
さっきまでは晴れだったのに、夏の夕方ってのは急に天気が変わりやすい。
顔を叩く雨粒がうっとうしい。スラックスが汗と雨を吸って足に纏わりつく。地面を踏んで跳ねる水が気になったのは最初の三歩まで。革靴に染み込んできた時点で諦めた。
何度顔を濡らす水滴を拭ったか、何度通行人とぶつかったか分からない。俺の目には雅坂の背中しか映っていなかった。
ここで雅坂を一人にしてはいけない。柊が送り出してくれた。その思いに応えなければ。
そのことで頭の中は埋め尽くされていた。
「──雅坂ッ!」
アジトを飛び出した雅坂を追い、全力で街中を走り抜けること数分。なんとか追いつくことに成功した。タバコをやめたおかげで肺の機能がある程度戻ってきているようだった。
しかし、それでも喉から鳴る甲高い呼吸音を抑えることはできなかった。
そんな必死な俺とは対照的に、雅坂の呼吸はあまり乱れていなかった。
並の女子高生じゃありえない体力だ。改めて思う。勉学だけじゃなく、芸事にも秀でている上に体力も並じゃないときた。いったいどれほどの努力を積み重ねればこれほど完璧な存在が出来上がるのか。
雅坂はただ剣道歴が浅いだけ。
すぐに大成して一気に伸びる。
そんな予感がした。
しかし、この圧倒的なポテンシャル故に、姉の蓮は──……。
「……先生」
雨で額に貼りついたふわふわの髪。
涙で濡れたのか、雨で濡れたのか分からない表情で雅坂が振り返り、
「ワタクシは、いらない子なのでしょうか……」
「──」
その声の、なんと弱々しいことか。
脳で考えたワケじゃない。大人として判断したワケじゃない。
いち指導者として、今、俺は彼女にしなければならないことを──理解した。
「そんなワケねぇだろ、バカ野郎」
雨で冷えた雅坂の体を、できるだけ優しく、優しく……包み込む。
「誰がなんと言おうと、俺たち……いや、獅子堂にとって、水瀬にとって、柊にとって、そして、俺にとって──雅坂 志保はいなきゃ困る存在だ」
言葉を間違えるな。だけど、言葉を選んで間を開けるな。心を貫け。俺の心に宿る、純粋な言葉を与えてやらなければならない。
雅坂は今、心に芯を失くしている状態だ。何かで支えてやらなくちゃいけない。ここで力のない弱い言葉じゃ意味がないんだ。
「それだけは、忘れないでくれ。獅子堂たちはおまえの味方で、俺は──おまえの先生だ」
姉に否定されようが、何を言われようが、その真実だけは揺るがない。どうか雅坂は、そのことだけは見失わないでほしい。鋼の芯にして、自分の心を支えてほしい──……。
「先、生……」
雅坂が生気の抜けた声で呟き、しばらくされるがままだった。
しかし、ゆっくりと、本当にゆっくりと、俺の背中に手を回してきた。
最初は掌で触れるだけだったが、段々と力が込められてきて。
俺の背中に爪を立てるように、しがみついてきた。
「うぅぅうううう……」
雨が地面を叩く。いいや、雨が叩いているのは雅坂の心だ。
無造作に、慈悲もなく、雅坂の傷に染み渡っていく。
俺は、そんな雅坂の傷を抱きしめてやることしかできない。
「うああああああああああああああ……あぁああああああああああああああああああ……」
もうシャツはぐしょぐしょだ。どれだけ濡れようが大差はない。
だから思う存分泣いてくれたらいい。
今はただ、泣く場所として胸を貸すことくらいしか俺にはできないから。