「……お邪魔いたしますわ」
「その、なんだ。ボロいし汚ぇし男臭ぇかもしれねぇけど、まぁ、服が乾くまではな、雨宿りとして使ってくれや」
雅坂が「ありがとうございます」といつもよりも低いテンションで礼を言う。
……二十九歳独身男性教諭の家に、現役ピチピチの女子高生が上がり込む。
見つかったらもう即逮捕待ったナシの状況に、二つの意味で心臓が喧しかった。
マジでどうしよう、これ。
なぜ雅坂が俺の家に上がることになったのか、数刻前まで遡る。
通行人の目も憚らずに泣き続けた雅坂。
雨が弱くなってきたのと同時に、俺の背中に立てている爪を緩めた。
まだ鼻をすする音は聞こえていたが、それでも深呼吸できるくらいには落ち着いたらしい。
「……大丈夫か?」
やがて、俺の体を離した雅坂は、泣き腫らした瞼を数回瞬きさせ、
「ありがとう、ございました。お見苦しいところをお見せして、申し訳ございませんでした」
あまりにも下手くそな作り笑いを浮かべた。眉が震え、頬を引き攣らせ、いつもの完璧な笑顔は見る影もなかった。その姿を見てさらに胸が痛む。
「謝ることじゃねぇだろ。とりあえず移動しよう。これ以上は風邪を引いちまうし……」
何より、その。
「服、シャツがな……」
密着している時は気付かなかったが、雨で雅坂のシャツがびしょ濡れになり、肌に貼りついてあまりにも淫靡な姿になっていた。豊満な胸を覆う紫の下着も透けてしまっている。
いかん、直視できん。雅坂も雅坂で気付いてしまったらしく、両腕で自分の体を抱くようにして胸を隠そうとしていた。珍しく戸惑ったように頬を赤らめる。
「ちょっと待ってろ」と言って近くのコンビニで手早くタオルを買って投げ与える。雅坂が「ありがとうございます」とタオルで自分の体を覆い隠そうとする。
しかし、濡れている面積があまりにも大きい。焼け石に水だった。
「……雅坂、おまえの家は」
「この街から五駅ほど離れたところですわ」
ダメだ、遠い。タクシーはどうだ? 多少金は掛かるが、そんなことを言っている場合ではない。連中のミサンガを買ったばかりで財布事情が怪しいか。もう一度コンビニへ行って金を下ろすか。ああくそ、段取りが悪ぃな。いや待てよ、カードという手が──と慌てふためく思考を必死に回している時だった。
「……先生」
雅坂が、弱々しい力で俺のシャツの裾を握り、
「先生のおうちは、どちらですか?」
ぽつりと、消え入りそうな声で呟いた。
俯いて、いつもの堂々とした姿からは想像もできないほど弱々しい姿で。
「……え」
「先生のおうちが、いいです」
何を、言って。
「お願いします、連れていってくださいまし」
雅坂が顔を上げた。今にも再び涙が流れそうな瞳で俺を見つめる。
頬を朱に染めながら、どこか怯えたような表情で懇願する雅坂。
未だに潤んでいる瞳と、腫れた瞼が、俺から選択肢を奪い去った。
そして時は元に戻る。
「先にシャワー浴びちまえよ。ジャージくらいは貸してやるから」
「ありがとう、ございます……お言葉に甘えますわ」
そそくさ、と背後で脱衣所に駆け込む雅坂。普段の彼女からは想像できないほどしおらしいな……あんな露骨に来るくせに。
扉がレールを転がる音。一秒後に戸を一枚隔てた奥から聞こえてくる、布の擦れる音。雨に濡れているから微かな水音も混ざっていた。ガチャリと浴室の戸が開いた。シャワーを出す。鮮明に聞こえていたが、すぐに戸を挟んでくぐもった音になる。
今までむさい男の一人暮らしでしかなかったボロアパートの俺ん家で、女子高生の教え子がシャワーを浴びているだと……。
ダメだ。考えてはいけない。本当に考えてはいけない。
いち教師としてこの状況がマジでアウトなのは分かっている。しかし、それでも『雅坂 志保の先生』である俺が見捨ててはいけないと訴えていた。
あの状況……雨に打たれている捨て犬のような表情を浮かべる雅坂。心を傷付けられて涙と雨に濡れる彼女の願いを、どうして無下にすることができる?
自分が取った行動は正しいと信じるしかない。やましいことなんかしてないんだから……。
しかし、芸能人とかも一晩泊まっただけでやれ不倫だのスキャンダルだのと騒ぎたくなるのが世の常だ。何があったかどうかはどうでもいい。見つかったら一発なのはどうやっても避けられないか。分かってる。だったら対策は雅坂を極力外に出さないこと。びしょ濡れの制服が乾いたらすぐに帰すこと。これを徹底するしかない。
結論は出た。しかし、結論を出しても心が落ち着かない。いても立ってもいられず、脱ぎ捨てていた寝間着や敷きっぱなしで乱れている布団を直す。掃除機を掛けながらどうしてもシャワー室の方に意識が集中してしまう。
……俺が使ってるの、スーパーで一番安いボディーソープとかだけど、あれかな、雅坂の肌にちゃんと合うかな。俺のせいで肌が乾燥したとかなったら目も当てられないぞ。
そうだ、温かいコーヒーとか淹れておこう。ブラックじゃなくて、もっと甘めのヤツ。あと道着とか干してるから、変に臭わないだろうか。念のためファ〇リーズを全体に掛けておくか。
そうこうしているうちに、シャワーの音が止まった。ガチャリと扉が開く。
一気に心臓が跳ね上がった。いや、緊張するのもおかしい話なんだが。それでもなぜか正座をしてかしこまってしまう。
「せ、洗濯機の上にシャツとジャージ、バスタオルを置いている。それを使ってくれ。服のサイズが小さいということはないだろう」
ありがとうございます、と雅坂が返して厚めの布が擦れる音が聞こえてくる。
チャックを閉める音がして三秒後、
「……シャワー、お借りしましたわ」
バスタオルで髪の水分を拭いながら、雅坂が顔を少しだけ伏せながら出てきた。