「……ッ」
ジャージは問題なかったようだ。少々袖と裾が余って指先爪先が少しだけ見えているような状態だったが、歩いたりするのにさほど支障はなさそうだ。
問題はそこじゃない。濡れた雅坂の髪だ。
やはり長いから、頬や額にまとまって貼りついてしまうのもあるだろう。温まって上気した頬と相まって艶っぽく見える。普段とはまた違った色っぽい一面に遭遇し目を逸らしてしまった。体育教師だから、プールとかで生徒の濡れた髪なんざ散々見てきてはいる。似たようなものだろう──と思っていたが、これは全く別物だ。状況が違う。それだけでここまで見え方が変わってしまうものか。滲む色気が段違いじゃねぇか。
っていうか、雅坂から俺んちのシャンプーの匂いがする。いや当たり前なんだけどさ。こう、意味が違ってくるじゃん。なんかいろいろと、こう、クるじゃん!
いかん、思考を切り替えなければ。頭を麻痺させている場合じゃないんだよ。
「ド、ドライヤー使え。濡れたままだと髪が傷むだろう」
「あ……はい」
返事をしたものの、何故か雅坂は脇の棚に置いてあるドライヤーに手を伸ばそうとしない。
ジーッと棚の方を見つめたまま、「よしっ」と意を決したように小さく拳を握り、
「あ、あの……もしよろしければ、髪を乾かしてはいただけませんかっ?」
強く目を瞑り、まるで告白でもするかのようにお願いをする雅坂。
「え、な、何故に?」
自分でも乾かせるだろうに──と思ったが、
「……、先生に、乾かして、ほしくて」
また雨に打たれている子犬のような表情で俯いてしまう。
やめろ、その表情は俺の良心に響くんだよ……。
「はぁ、わぁーったよ。ほれ、鏡向け」
頭を掻きながら言った瞬間、雅坂の顔にわずかながら光が戻ったような気がした。
「あ、ありがとうございます」
俺に背を預け、大人しく待っている子犬もとい雅坂。
ドライヤーをオンにして髪に温風を当てていく。毛先よりも優先は根元。上から流すイメージで髪を梳いていく。
……にしても、マジで柔らかい髪だな。本当に使ったのは俺の同じシャンプーか? 実はどこかにマイシャンプーみたいのを隠し持ってたんじゃないだろうな。
ふわふわで、まるで綿菓子に手を突っ込んでいる気分だ。
「……気持ち良いですわ……」
「親父さんにやってもらったりしなかったのか」
何気なく尋ねると、雅坂はどこかハッとして、
「……実は、お恥ずかしながら。こういった甘えるようなことは、できませんでしたわ」
「──」
一瞬だけ、息が止まった。
雅坂の家族。姉の蓮だけではなく、父親との関係も少なからず影響しているのだろう。
聞くべきだろうか。いや、今ではないか。雅坂自身も、今まで俺に言わなかったってことは、あまり話したくないことなのかもしれないしな。
「……終わったぞ」
「ありがとうございました。またやってくださると嬉しいですわ」
できたら勘弁してほしい。教え子(女子高生)の髪を乾かすとか、精神衛生上よろしくないからだ。こっそりとガスを抜くように深く息を吐いてリビングまで戻る。
「コーヒー、甘めに淹れておいた」
雅坂がシャワーを浴びている間に用意したコーヒーからは、まだ微かに湯気が立ち昇っていた。座布団に腰を下ろすよう促し、ちゃぶ台の上にあるコーヒーを勧める。
最早何度目か分からない「ありがとうございます」と共に、雅坂がカップに手を添える。
「……、……あたたかい……」
「安物だけどな」
自分用に淹れたブラックを煽る。今はこの苦さが思考を糾してくれる気がした。
ただ、どう話を切り出せばいいかが分からない。ここで俺の女性経験の少なさが露呈してしまうのが情けない。当たり障りのない会話からいけばいいか? でも、流れからして不自然すぎるだろう。やはり話の中心から逃げることはできない。でもどうやって言えばいいのか……どうしてもデリケートな内容になるので、言葉選びに悩んでしまう。
しかし、雅坂から姉の話を詳しく聞く前に、まずは俺が雅坂にしなければならないことがある。そう思うと、自然と重たかった口が開いた。
「雅坂」
名前を呼ばれて、跳ねるように背筋が伸びる雅坂。
俺は立ち上がり、まっすぐに彼女の目を見つめ、
「すまなかった」
深々と頭を下げた。
雅坂が驚いたように息を呑んだのが分かった。
バタバタと音がする。肩に手の感触。俺の方に慌てながら来たのだろう。
「あ、頭を上げてくださいまし! どうして先生が謝ることが──」
「俺は最低だった。何も分かっちゃいなかった」
雅坂の手と言葉が止まった。
「おまえと姉の事情を何も考えず、知らず、ただ合宿費用を浮かせるためという下心でどうにかしようとしていた。その結果がこれだ。おまえが姉に傷付けられ、仲が裂かれた」
「違います。姉との確執は、ワタクシが不用意に剣道を」
「違う。剣道を始めようとしたおまえが間違っているだなんてそんなワケあるか。もっとやり方があったはずだ。俺はそれを選ばなかった。考えなかった! だから……」
だから、おまえを傷付けた。
雅坂姉妹の問題は、確かに知る前の俺ではどうしようもないことだろう。
しかし、知った後の行動の取り方はもっと選べたはずだ。
下心なんか抜きにして、話を聞くべきだった。
「……今日、姉と家族のことを全部話さなかったのは、ためらいがあったからだろう」
雅坂の手がピクリと動いた。
「教師だから何でも話せるワケじゃない。俺がその気持ちを汲み取れなかった。真摯に向き合っていなかった! だから、おまえは話さなかったんじゃないのか?」
だから、謝罪をしている。果たしてこれが正しい行動なのかは分からない。ただ自分が謝りたいからこうやって頭を下げているだけと捉えられるかもしれない。でも、俺は今この場でできるそれ以上の誠意の示し方を知らないのだ。二十九のおっさんになっても、所詮は少しばかり子どもよりも大人のフリが上手くなっただけのクソガキでしかないんだなと、痛いほど思い知る。雅坂はしばらく黙ったままだったが、やがて一つ息を吸い、
「自罰的すぎますわ、先生」
優しく、無精ひげの生えた俺の頬を撫でた。
「先生は何も悪くありません。今日のお昼のことは……たとえ先生がおっしゃる通り真摯に向き合ってくれたとしても、話すことはしなかったと思います」
どうして、そんな意思を込めて雅坂を見る。
「だって、ワタクシの家庭の事情です。いくら先生でも……いや、大好きな先生だからこそ、ご迷惑をおかけするワケにはいかない──そう考えましたの」
ですが、と雅坂が微かに瞳を潤ませながら俺を見る。
「もうこうなってしまった以上、すべてをお話します。ワタクシと姉、そして父のことを」
鼻をすする音がした。俺からか、雅坂からか。
「先生、向き合おうとしてくださってありがとうございます。あなたがワタクシの剣道の先生で、本当に良かったですわ」