「お姉さまがあそこまでワタクシを憎んでいたなんて知りませんでした」
座布団に正座をしながら、雅坂がそう切り出した。
真っ黒ではなく茶色のコーヒーからは、すっかり湯気が立たなくなっていた。
「姉……蓮のおまえに対する感情は昔からか?」
「おそらく。ですが、あそこまで感情をぶつけられたことはありませんでした。どこか壁のようなものはずっと感じていましたが……」
いつごろからか、と問う。
「十歳ごろ、でしたでしょうか。ワタクシが初めてピアノのコンクールで入賞した時あたりから……少しずつ、姉のこちらを見る目が鋭く、冷たくなっていくのを感じました」
優秀な妹、
デキの悪い姉。
お姉ちゃんなのに、妹はデキが良いのに。
『姉妹』という微笑ましい関係を連想させる言葉が、蓮にとっては呪いになっているのだ。
家族の絆ではなく、重たい鎖が二人をつないでいる──。
二人の間にある感情は愛情と嫉妬だ。不登校になっている姉を思い遣っている妹の行動の原動力は間違いなく姉への愛情に違いない。しかし、それが逆に姉から妹への負の感情を煽り立てている結果にしかなっていないのだ。
「ワタクシがある習い事で結果を出すたびに、姉はその習い事を辞めていきました。ピアノも、書道も、絵も、そして……勉強も」
六月の大会で決めた小手を見て、俺は直感した。雅坂 志保は天才肌だ。足りないのは経験だけ。必要な筋力と手首の慣れ、そして場数を積めばこの剣士は間違いなく伸びると。
だが、それは必ずしも才能だけではなかった。今まで積み重ねてきたありとあらゆる経験が雅坂の土台となり、剣道という未知の領域でもすぐに育つ土壌が造成されている。
俺は剣道の分野で雅坂の潜在能力を知り、指導に力を入れているが、
それがもし……家族で、姉──もしくは兄で、妹より優れていなければならないという立場だとしたら? 妹より優れてなければならないという強迫観念に縛られて生き続けなければならないとしたら?
それがもし、死ぬまで追われ続け、逃げることができないものだとしたら?
「……地獄だな」
雅坂には聞こえないように呟いた。
「ですが、剣道はワタクシの触れない分野でした。おまえはする必要はないと父から禁じられていましたので」
「……おまえの父親は院天堂の役員さんだよな? なぜ剣道に対してそんな選ぶような思想があるんだろうか」
「父は剣道の師範代ですの。そこでいつも言っていたのが、剣道はあくまで人格形成の道であって、足りない人間がするものだ、と……」
前半は分かるが、後半はちょっと思想が強すぎるのではないだろうか。
と、思ったが、つまるところ雅坂の父親は剣道を趣味や娯楽として考えていないということか。あくまで修行の一つであるということか。
「父はとにかく、『良い人間』を育てることに注力していました。完璧を追い求めて、一切の妥協を許さない……そんな人です。人より良い成績を、人より良い結果を、人よりも全てにおいて優れなければ雅坂家の人間ではない──そんな教えがずっと」
雅坂のどこか痛みに耐えるような表情だけで、どんな教育がされてきたのか想像ができてしまう。聞いているだけで気が滅入りそうだ。
幼年期の子どもにとって親は全てだ。親の教えが子どもの心の基礎を形成する。そしてそれは大人になってどれほどの経験や知識が積み重なろうとも、ずっと奥底で眠り続ける。
「……もはや洗脳だな」
「言い得て妙ですわ」
そう──教育とは『洗脳』である。
銃で人を撃つことを忌避する子どもにも、そうすることで神様の許へいけるよ、親が喜ぶよ、と丹念に教え込ませれば子どもは銃で人を撃つことになんのためらいも持たなくなるようになる。雅坂の父親がこの姉妹に教え込んだのはこういうことだ。外面は違うが、中身は同じだ。
人より上に立たなければ雅坂家に相応しくない。
そんな強迫じみた思想に追われた結果がこれだ。
雅坂は幸か不幸か父親からの課題を熟すだけの器量があったが、姉の蓮にはそれがなかった。
たったそれだけの差でしかない。だからといって、子どもに注ぐ愛を差別していい理由にはなりやしないだろうに……。
「おかしいとは思わなかったのか」
「幼い頃は、おかしいと思えませんでした。ですが、授業参観や運動会など、他の親を見るにつれて……自分の家はどこかみんなと違う、と違和感を覚えていきました」
雅坂がコーヒーを口に運ぶ。苦々しい顔をしているのは、味のせいではないだろう。
「決定的だったのは、ある教師の存在でしょうか」
「……教師?」
頷き、思い出すように目を細めた。
「はい、中学の頃、姉が剣道をやめる直前辺りでした……塾の模試で、全国一位を取り逃してしまったことがあったのです。その時の折檻はもう……思い出すだけで……」
カップを握る手に力がこもった。何かを耐えるような、そんな力の入れ方だ。
「思わず家出をしました。夜……門限を過ぎて街を当てもなく歩いていて、疲れ果ててコンビニの駐車場で腰を下ろしている時でした……そこに、一人の男性が声を掛けてきて」
危ない匂いがするが、今は口を挟むまい。
「その人は疲れた顔をして、気怠そうな声で、『ガキがこんなところで何やってんだ、腹減ってんのか』って」
「なんだ、その気持ち悪い野郎は」
俺が率直な感想を言うと、雅坂はどこか切なそうに眉をひそめて、
「……、……、やはり、──ては……」
俺には聞こえない声で、ぽつりぽつりと何かを呟いた。
「ん? なんて?」
「いいえ、なんでもありませんわ」
先ほどの様子とは打って変わって、いつもの笑顔を浮かべる雅坂。なんだったんだ。
「その人は、肉まんを買って投げ渡してきたんです。ワタクシ、コンビニで買い食いなんて初めてで、ピアノの発表会よりもドキドキしたのを覚えています」
頬を両手で包み、「きゃー」と小さくはしゃいでいる。
「ワタクシ、その人に事情を話したんです。そしたらその人……こう言ったんです」
思い出のアルバムをめくるような表情で、
雅坂は俺から目線を外し、心の内側にある温かさを絞り出すような声で、
「おまえ、『良い子』を演じるの辞めたら? って」
なんだそりゃ。ソイツ確か教師なんだよな。不良になることを推奨してんじゃねぇよ──と、思ったが何故だろう。俺がもしその場にいたら、近しいことを言ってしまうような気がする。
たぶん、いや、間違いなく、それが雅坂にとって必要な言葉だったのだろうから。
「最初は驚きました。なんて酷いことを言うんだろうって。ワタクシがこれまで積み重ねてきたことをどうして台無しにするようなことを言えるんだろうって」
でも、と雅坂が言葉を続ける。
「ワタクシ、何故か心が軽くなったような気がして、泣いちゃいまして。涙が止まらなくて。その時に気付いたんです。ワタクシは、良い子を演じていただけだったんだって。その人は、ワタクシが泣き止むまでずっと隣にいてくれたんですの」
まっすぐに、俺を見つめてくる雅坂。
「『良い子』を、演じる……か」
ひょっとしたら、誰もがそうなのかもしれない。
親がそうしろと言ったから、教師に好かれるために、成績のために、仕事のため、家族のため、誰もが当然のように『良い子』でいるが、その内側は、本性は──。
それが許されないのが大人だ。
だが、子どもの頃からそんな塩で浄化されるような潔癖を強いられて、果たして『良い子』でい続けることはできるのだろうか。
「そこからですわ。ワタクシが男性教諭を性へ──こほん、男性教諭を尊敬するようになったのは」
何を言い直したかは深堀りしないでおく。
「そして、『良い子』を演じるだけのワタクシはもう辞めようと思いました。まだまだうまくできませんが、もっと自分を大事に、自分自身の好きに生きていいんだと思えるようになったんです」
「じゃあ、天凛に来たのも」
「ええ、父親好みの『良い子』であり続けることに嫌気が差した、ただの反抗期です」
「ぶはっ」
思わず吹き出してしまった。自分の膝を二度叩く。
「きっと、反抗期というものだったのでしょうが、先生……ワタクシは不良でしょうか?」
舌を小さく出しながら挑発的な目で見てくる雅坂。思わずニヤリと口角が上がってしまう。
「ンなワケあるか。思春期らしくて上等じゃねぇか」