イノシシが突進してきたようなけたたましい物音で、にゃんごろーは目を覚ました。
「ふにゃぁ……?」
目をコシコシしながらむくりと起き上がり、大きく伸びをする。くにゃんと丸くなっていた体が、ピーンと反り返った。
それから、キョロリと辺りを見回した。
薄い水色の壁紙。備え付けの調度品と、人間用とネコー用のテーブルが一つずつ。飾り気のない、あっさりとしたお部屋。お船の中の、長老とにゃんごろーがお泊りしているお部屋だ。
テーブルでお絵描きをしていたはずなのに、いつの間にやらネコー用のカゴ型ベッドに寝かされていた。部屋の端に片付けられていたはずのベッドは、なぜか部屋の真ん中へと移されていた。代わりに、お絵描きをしている最中はそこにあったはずの、人間用とネコー用の二つのテーブルが端へと追いやられている。
お部屋には、長老だけじゃなくて、一緒におやつを食べたみんなもまだ、残っていた。長老以外のみんなが、にゃんごろーを見つめている。
「おはにょー……ごにゃー……にゃ……」
起きたばかりで状況を把握できていないにゃんごろーは、不思議そうにみんなのお顔を見回してから、コトリと首を傾げて、ふにゃふにゃとお目ざめの挨拶をした。すかさず、取り囲むみんなからも挨拶を返されたけれど、子ネコーの意識は、すぐに外の通路へと逸れていった。
にゃんごろーをお昼寝から揺り起こした目覚まし騒音は、通路の方から聞こえてくるのだ。しかも、段々と近づいてくる。イノシシのような突進音と、若い男の叫び声。それから、もう一つの声は――――。
「…………ミルゥしゃんら!」
声を聞き分けたにゃんごろーは、一瞬で覚醒した。顔を輝かせて、ベッドの中で立ち上がる。
聞こえてくるもう一つの叫び声の主が、ミルゥだと気づいたからだ。
お仕事から帰ってきたミルゥをお迎えしようとベッドから出る前に、ミルゥが部屋に辿り着いた。
ズザザーッと急ブレーキをかける音と共に、ドンドンと助けを求めているかのような激しいノック音が鳴り響き、返事をする間もなく、壊れなかったのが不思議なほどの勢いでドアが開いた。
「にゃーんごろー! たっだいまー!」
「おかえりにゃしゃーぁ…………ふにゃぁああああ!? ミ、ミルゥしゃーん!?」
「うっわぁああああ!?」
ミルゥの突進は、まだ終わっていなかった。
ドアを開けたその一瞬でにゃんごろーの居場所を捉えたミルゥは、片手で掴んでいた何かをペイっと床に放り投げて、カゴベッドの中で立っているにゃんごろーに突撃する。ベッドを取り囲んでいたおとな達は、いつの間にかススッと移動していた。部屋の入り口からベッドまで直通出来るように、子ネコーを取り囲む人壁にちょうどいい隙間が出来上がる。
その突進はベッドを弾き飛ばしかねない勢いだったが、ミルゥはベッドの手前で膝をついて勢いを殺すと、お目目をまあるくしている子ネコーを抱き上げて、もみくちゃにした。あまりの勢いにびっくりしすぎて、「おかえりなさい」を言い終える前に、にゃんごろーは思わず悲鳴を上げてしまった。
にゃんごろーの声に被せるように、床に放り投げられた“何か”からも悲鳴が上がった。
その何かに、カザンが涼しい顔と涼しい声で労いの声をかける。
「いろいろとお疲れ様だな、クロウ」
「お、おおお、おぅ……」
床に転がされた何かは、人間の若い男だった。カザンにクロウと呼ばれた男は、呻くように返事をしながらヨロヨロと起き上がる。年齢は、ミルゥと同じくらい。カザンと同じ、濃紺のスッキリしたラインのインナーを着ているが、羽織物は違った。カザンは、白い筋が混じった藍色の羽織を合わせているが、クロウは薄い水色のジャケットを上に着ている。ジャケットの背中には、お船の船体に描かれていたのと同じ、青い猫の絵が描かれている。カザンよりは身長が低いが、程よく引き締まった体付きをしていた。
クロウはミルゥのことを恨みがましい目で見ながら、そのまま床の上で胡坐を組んだ。
「随分、早かったな?」
「ああ。ミルゥの奴が、早く帰りたいからって、やたらと張り切ってな……」
「なるほど。にゃんごろーに早く会うためか……」
クロウは年寄りたちに挨拶をしようと顔を向けたのだが、年寄りたちもミルゥ同様、クロウのことは眼中にないようだったので諦めた。三人とも、ミルゥにもみくちゃされて「にゃふ、にゃふ」笑っているにゃんごろーに釘付けになっている。
長老だけは、仕事から戻ってきたクロウのことを労ってくれたので、小さく会釈してそれに答えた。
「お疲れさんじゃったのー」
「あ、長老さん。ども。お邪魔……させられてます」
口ぶりからして、どうやらミルゥに無理やり連行されたようだ。
当のミルゥはにゃんごろーに夢中で、自分で連れて来ておきながらクロウのことはすでに眼中にない。
「子ネコーに会いたくて連れて来てもらった……というわけでは、ないようだが。どうして、こうなったのだ?」
「いや、今日一日、ずっとその子ネコーのことを話しているからさ。うっかり、そんなに可愛いのかって聞いたら、『その目で直接、確かめてみるがいい!』って言われて、無理やり連れてこられた」
子ネコーから視線を逸らさないまま尋ねてくるカザンに、クロウは「アンタもか」とため息をつきながらも答える。物真似のつもりか、途中のミルゥのセリフ部分の声音を変えていたけれど、残念ながらあまり似てはいなかった。
「それで、どうだ?」
「あ? あー……、まあ、可愛いんじゃねぇの? ネコーにしては小さいけど、猫よりは大きくて、サイズ的には微妙な感じだけど。顔つきは子供っぽいっつーか、幼い感じがするよな。あと、無邪気さ全開って感じだな」
「うむ。そうだろう」
「………………」
クロウとしては渾身のつもりの声真似には一切触れずに、カザンは子ネコーを見つめたまま、質問を重ねてきた。最初、何を聞かれたのか分からずに怪訝な顔をしたクロウだったけれど、子ネコーについての感想を求められているのだと、すぐに察した。
クロウは、『子ネコーというだけで無条件にデレメロ軍団』団員ではないようで、熱意のない、辛うじて褒めているといえないこともない……程度の答えだったが、その辺りの機微には気づかないままカザンは満足げに頷いている。
その口元が綻んでいるのを見て、クロウは目を丸くして思わず声をもらしてしまう。
「アンタも、そういう顔、するんだな……?」
「ん? そういう顔、とは?」
ほとんどひとり言のようなそれを、カザンは拾い上げた。子ネコーからクロウへと視線を移して首を傾げるその顔は、クロウが見慣れているいつも涼しそうな表情だった。クロウが知るカザンは、いつも唇を真っすぐに引き結び、静かに涼しそうに佇んでいる。喜怒哀楽の読み取りづらい男だと思っていたのだが、先ほどのカザンは、確かに――――。
「いや。アンタの笑っている顔って、初めて見たなと思って」
「む? そうか? そんなことは、ないと思うのだが……」
「そうそう。ソランさんと一緒にいる時とか、結構、顔が緩んでるよ?」
「そう……か?」
「ああ、なるほど……」
笑っている……というほどではないカザンの表情の綻びをクロウが指摘すると、不足していた子ネコー分を十分に摂取し終えたらしきミルゥが話に入って来た。そうは言っても、まだ子ネコーを抱きしめたままではあるが。ミルゥに構われて嬉しそうに笑っていた子ネコーは、笑いすぎて疲れたのか、少しクタッとしている。
そうしていると、まるでぬいぐるみのようだ。
ミルゥが会話に加わったことで、クロウからミルゥの腕の中の子ネコーぐるみに視線を戻したカザンの目元が、またほんのりと緩む。
それを見てクロウは理解した。
つまり、カザンはネコーたちといる時だけ、表情が緩むのだと。