長い道のりを経て、ようやくすべての準備が整った。
ストローがバッチリ装着されたイチゴミルクの箱を、両手で大事そうに持ったにゃんごろーは、それをもう一度天に掲げて一人乾杯をした。
それから、満を持して。
ハクリ。
と、ストローをお口にくわえる。
くわえたまま、まずはゆっくりと吸い上げてみる。
――――が。
お口の中には、空気しか入って来なかった。
おや?――と小さく首を傾げて、それから。
今度は、思い切り吸ってみる。
けれど、やっぱりストローをくわえたお口の隙間から空気が入ってくるだけで、ストローからは何も出てこない。
「にゃんごろー、にゃんごろー。こうやるのじゃ。長老の魔法をよく見ておれ」
「ちょーろー……」
ストローから口を離して、箱を少し持ち上げ本格的に首を傾げていると、長老の声が聞こえてきた。
こうなることを見越していた長老は、逸る気持ちを抑えながら、子ネコーが一度失敗するまでフルーツミルクを飲まずに待っていてくれたのだ。
にゃんごろーが長老の方にお顔を向けると、長老はニヤリと笑ってみせた。
にゃんごろーは、「は!」と真剣なお顔になって、長老に意識を集中する。
ほんの一瞬たりとも、見逃すことは出来ない。
これから、長老による魔法の実演が始まるのだ。
パクリとストローをくわえるところまでは、にゃんごろーと一緒だった。
でも、そこから先は、一味違う。
スゥッと息を吸うのと同時に、長老は魔法を使った。
すると、ストローの中を、ほんのり黄みがかかった液体がゆっくりと上っていく。
「んっく、んっく、んっく。…………ぷはぁ」
目を細めながら、魔法で吸い上げたフルーツミルクを美味しそうに飲んでから、ストローから口を離し、満足そうに息をついて幸せそうなお顔をする長老。
「ふぉおおおお……」
幸せそうな長老が羨ましくて、にゃんごろーは思わずうなり声を上げてしまう。
負けていられるか、とにゃんごろーも勢いよくストローにくらいついた。
長老がストローを使ってフルーツミルクを飲むところは、一つも逃さず、つぶさに観察していた。
やり方は、バッチリだ。
「おお、そうじゃ、にゃんごろーよ。あんまり、勢いよく吸い過ぎると、お口の隙間からこぼれてしまうから、最初は、ゆっくりな」
「ん、んむ?」
血走ったお目目で、今まさに、思い切り吸い上げようとしていたにゃんごろーは、魔法を止めて、長老のお顔へと目線だけを走らせる。
「コップで飲むときも、あんまり焦ると、お顔にビシャッとなったり、むせて咳が止まらなくなって、美味しく味わうどころじゃなくなるじゃろ?」
言われた通りの大失敗をしたことのあるにゃんごろーは、ストローをくわえたまま、コクコクと頷いた。
それは、長老が初めてお船からミルクをお土産に持ってきてくれた時だった。森では、ミルクなんて滅多に手に入らない。おかーにゃんのおっぱいを卒業して、赤ちゃんネコーから子ネコーへと成長したにゃんごろーが、おっぱいではないミルクを飲むのは、これが初めてだった。
その時は、早く飲みたくて逸る気持ちを抑えきれず、グイッと勢いよくコップを呷ってしまった。その結果、せっかくのミルクをビシャッとお顔に引っかけて、盛大に咽てしまったのだ。ゲホン、ゲフンと咳をするのに忙しく、とてもミルクを飲むどころではなかった。おまけに、やっと咳が治まってみれば、お顔どころか体までミルクまみれの大参事で、コップの中のミルクは半分に減ってしまっていたのだ。まだ一口も飲んでいないのに、半分も無駄にしてしまったことがショックで、にゃんごろーは床に突っ伏して大泣きしてしまった。
あの頃はまだ、赤ちゃんの時に鳥に攫われてしまった兄弟以外は、全員そろっていた。にゃんごろーのあまりの嘆きっぷりを見かねたみんなは、少しずつ自分のミルクを分けてくれた。兄弟たちのおかげで、にゃんごろーはようやく笑顔を取り戻したのだ。
それは、嬉しさ後悲しくて悔し大泣きからの、みんなの優しさに大感激した、にゃんごろーの大切な思い出だ。思い出すと、胸の奥がキュッと苦しくなるけれど、まだネコーの住処が賑やかだったころの、大切で大事な思い出。
その後、お空に行ってしまった兄弟たちの顔を思い出して、ちょっとしんみりしてしまったにゃんごろーだったけれど、すぐに気を取り直した。
今、ここには。
あの頃と違って、にゃんごろーを助けてくれる兄弟たちはいないのだ。ここは、慎重にいかなければならない。
お空の兄弟たちに成長した姿を見せるのだ、とにゃんごろーは気合を入れた。
だが、あまり気合を入れ過ぎては、昔と同じ失敗を繰り返してしまう。
にゃんごろはー、一度ストローを口から外して、大きく深呼吸をした。
「おちちゅいて……。しんちょーに……」
あの大失敗を、二度と繰り返してはならない。
せっかくのイチゴミルクなのだ。
一滴たりとも、無駄にしたくない。
風呂上がりの一杯を楽しむには真剣すぎるお顔で、子ネコーは、ストローをお口にお迎えした。
ゆっくり慎重に、息を吸い。
ゆっくり慎重に、魔法でイチゴミルクを吸い上げる。
その甲斐あって、ほどなくして――。
舌の上に、冷たくて甘いものがじわっと広がった。
「うみゅ!?」
子ネコーは吸い上げるのを止めて、カッと天井を仰いだ。
感動のあまり、両目の端から涙が零れ落ちていく。
それからは、もう夢中だった。
「んっ、んっ、んっ」
と、絶妙なスピードでイチゴミルクを吸い上げ、喉の奥に流し込んでいく。
冷たさが心地よいせいもあって、止まらなかった。
止められなかった。
天井を見上げたまま、イチゴミルクを飲み干していくにゃんごろー。
意識はとうに、宇宙の彼方へと飛び立っていた。
そして、ついに――。
ジュゴッ、ジュゴゴッ。
と、終わりを告げる音が鳴り響く。
何度かジュゴジュゴを繰り返して、ようやく。
子ネコーは、至福の時間が終わったのだと悟った。
名残惜し気にストローから口を離すと、魔法を使って、イチゴミルクの箱をふわふわトンと床に降ろす。
名残惜しくもあったが、大いに満足していた。
お腹もパンパンだった。
まあるくなったお腹を、両手で優しく撫でまわしながら、「ふはー」と大きく息を吐く。
「イチロリャムとは、ちょっとちがったおあじ……。しゅっぱいのが、にゃいきゃんじ? ミルルらからかにゃー? つみぇちゃくて、あみゃくて、やしゃしいおあじらった……。こりぇは、ちゃいへん、しゅばらしいみょのれしゅ……」
ゆるゆるっと幸せそうなお顔で、初イチゴミルクの感想を述べるにゃんごろー。
様子を見守っていた大人たちも、負けないくらいに緩んだ顔をしていた。カザンだけは、ギリギリ涼やかさを保っていたが、目元には甘さが漂っている。
ネコーたちは、甘いミルクの余韻で、ほわほわと意識を幸せの波間に漂わせていた。
そのお顔を見ているだけで、大人たちは幸せのイチゴミルク風呂に浸かっているような気分を味わえた。
誰も彼もが、満足していた。
――――こうして。
長老の宣言により、突然、始まったネコーたちのお船休暇は。
甘い幸せに包まれたまま、終わりの時を迎えるのだった。