カーテンの向こうから差し込んでくる明るい陽ざしを感じて、子ネコーはパカッと目を開けた。
ネコー用のカゴベッドの中でムクリと身を起こしと、シュバっと片手を上げた。寝起きなのに、バッチリ開いたお目目をキラキラわくわくと光らせながら、大きな声で威勢よく、朝のご挨拶をする。
「おはにょーごにゃーましゅ!」
「……ふごぉ~……」
けれど、返ってきたのは、隣のカゴベッドで気持ちよさそうに寝ている長老の鼾だけだった。
「ちょーろー、まら、ねちぇる……」
隣のカゴベッドを覗き込むと、長老の長くて真っ白なもふぁもふぁに包まれたお胸が、鼾に合わせて上下している。まだまだ、目覚めそうもない。
「きょーは、おふねの、けんらくきゃい……」
夢の中にいる長老のことは、そのまま、そっとしておくことにして、にゃんごろーはわくわくキラッとお目目を光らせて呟いた。それから、両方のお手々をお耳の前にのせて体を丸めると、カゴベッドの中で足をジタバタさせる。
「はぅぅう~。ちゃのしみしゅぎりゅぅうぅう~」
ひとしきり身悶えてから、にゃんごろーはピタッと動きを止めて、「にょし!」という掛け声とともにお顔を上げた。「おいしょ、おいしょ」とカゴベッドから這い出て、床へと降り立つ。
かなり騒々しくしていたのだが、長老は依然、夢の世界を楽しんでいるようだった。
長老のことは気にかけずに、にゃんごろーは、日差しが差し込むカーテンへと向かった。
通路への入り口と反対側の壁に掛けられた、真っ白いカーテン。
軽快な足取りで、トットコと歩いていき、カーテンの裾に向かって、背伸びしながらお手々を伸ばす。
にゃんごろーは、人間の大人の膝上くらいの大きさなので、そうしないとお手々が届かないのだ。
ギリギリ届いたカーテンの裾に可愛いピンクの肉球を添えて、にゃんごろーは魔法の力も使って、真ん中閉じのカーテンの右側をシャッと勢いよく開ける。
ネコーは猫に似た外見だけれど、二本足で歩き人の言葉を離すこともできる魔法の生き物だ。まだ子ネコーとはいえ、最近、めきめきと魔法が上達中のにゃんごろーには、これくらいは朝飯前だった。
続けて、左側のカーテンも開けて全開にすると、真ん丸お窓が飛び出してきた。
窓の外には、抜けるような青空が見える。
窓を開けられたら気持ちよさそうだけれど、生憎それは不可能だった。
にゃんごろーが子ネコーだから、ではない。
お船の窓は、そのほとんどが開けられない仕様になっているのだ。
今は、人間たちの住処として使われているお船だけれど、その昔は魔法の力で空を飛んでいたのだ。窓が開かないのは、安全のためなのだ。
そう言われても、子ネコーのにゃんごろーには、今一つピンと来なかったのだが、そこは長老が説明してくれた。
「子ネコーがいたずらして、お空を飛んでいる最中に窓から外に落っこちたら、文字通り“お空に行って”しまうからのぅ」
“お空に行く”とは、ネコーの言葉で、命を失うということだ。
それを聞いたにゃんごろーは、全身の毛をブルっと震わせながら長老のもふもふのお腹にしがみついた。
お空を落ちていく最中に、大きな鳥さんに捕まって、ごはんにされてしまう自分を想像してしまったのだ。にゃんごろーは、トリさんを食べるのは大好きだけれど、鳥さんに食べられるのはごめんだった。
お船の窓が開かないようになっていてよかった、と心の底から思った。
「んー、んん。ん~っっっ……」
にゃんごろーは、毛並みに光を浴びながら、大きく伸びをした。
白が混じった明るい茶色の毛並み。白が多めのお腹がグインと反り返る。
ほわほわした毛先の隙間を、光が通り抜けていった。
カーテンを開けたことで、お部屋の中はグンと明るくなっていた。そろそろ、長老も目を覚ますだろうかと、にゃんごろーは横目でチラッと様子を窺ってみる。残念ながら、長老のお目覚めは、まだ先のようだ。「ふごー、ふごー」をという、鼾交じりの寝息が聞こえてくるだけだ。
「まら、ねちぇる……。あーうー。ちょーろー、はにゃくー、おきちぇー」
にゃんごろーは腰をふりふりしながら、じだもだと両手を上下に忙しなく動かした。
長老が起きたからと言って、お船見学の時間が早まるわけではない。それは、分かっている。けれど、長老が起きて話し相手になってくれれば、少しは逸る気も紛れるかもしれないのだ。
「あ! しょだ!」
じっだもっだ、じっだもっだと、悶えているのか踊っているのか判別が難しい動きを披露した後、にゃんごろーは、はたと動きを止めて、小さなお顔を輝かせた。
いいことを思いついてしまったのだ。
クルリ、と方向転換した子ネコーは、小刻みなステップを踏みながら、部屋のドアへと向かった。
足取りに負けないくらい、心も躍っていた。
ドアの真ん前に辿り着くと、「はわっ」とお目目を煌めかせ、端っこの真ん中より少し下にある丸いスイッチを見上げる。ドアの開く方の端にあるスイッチにタッチすると、ドアが開いたり閉まったりするのだ。
お船に来てからは、ずっと誰かと一緒にいた。お部屋を出入りする時は、誰かがドアを開けてくれるので、にゃんごろーはついて行くだけだった。
下からその様子を見上げながら、一度、自分でドアを開けて、出たり入ったりしてみたいと思っていたのだ。
にゃんごろーは振り向いて、長老がまだ寝ていることを確認した。
問題は、なさそうだった。
さっきまでは、早く起きないかとソワソワしていたのに、今はもう少し、ひとりの時間を楽しみたかった。
なんとなく、ひとりで冒険をしているかのような気分なのだ。
にゃんごろーは、胸の前で両方の拳をぐっと握りしめ、「むふっ」とやる気のこもった鼻息を吐き出した。それから、キラギラっと瞳を光らせて、「ちょうっ!」とジャンプをしながら、右のお手々をスイッチに向けて思い切り伸ばす。
肉球の先が、ギリギリ、スイッチに届いた。
着陸と同時に、ドアがシュインと開く。
「やっちゃ! れきた!」
子ネコーは、長老を起こさないように、小声で叫ぶという、器用な芸当を披露した。
ひとりで、自分の力で、ドアを開けた。
――たった、それだけのことで。
子ネコーの小さなお胸は、ドキドキと高鳴っていた。
もちろん、これで終わりにするつもりはなかった。
開けたドアから、お部屋の外へ出て。また中に入ってドアを閉めて。
そこで初めて、子ネコーの小さな遠足は完了するのだ。
するのだが――。
最初は、それだけで。
早朝の小さな冒険は、終りにするつもりだった。
けれど。
ここで終わりにしてしまうのは、なんだかもったいない。
もう少し、この高揚感を味わいたい。
子ネコーの小さな胸の中には、今。
新たな野望が、生まれていた。
このまま、にゃんごろーひとりで。
お船の中を探検してみたら――――?
「は、はわわわわわわ~~」
ひとりで勇ましくお船の中を探検して回る自分の姿を想像するだけで、子ネコーの小さな胸は激しく高鳴った。
暴れるお胸を鎮めなければと、にゃんごろーはピンクの肉球で、お胸の周りの毛をわしゃわしゃとかき回す。
わざわざ、ひとりで探検に行かなくても、もう少し待てばお船見学会が始まるのだが。
でも、そういうことではないのだ。おとなたちに案内してもらうのではなくて、ひとりで探検してみたい。冒険してみたい、のだ。
ドライヤー魔法を褒められたことや、ひとりでお部屋のドアを開けられたことが、自信に繋がっていた。
その自信が、子ネコーの眠れる冒険心を揺すぶり起こしたようだ。
先日、ネコーの住処で大事件が起こった時に、ひとりで森を抜けて、お船まで助けを呼びに行ったことも、子ネコーの背中を後押ししていた。
それについては、実際には。途中で転んでミルゥに助けられ、そのまま抱きかかえられてお船まで連れて行かれたので、にゃんごろーひとりで成し遂げたわけではないのだが。それでも、森の半分くらいまでは、一人で進んだのだ。森へ一歩踏み出すのも、ようやくだったにゃんごろーにとっては、大快挙と言ってよかった。
ちなみに、この森への子ネコー的大進撃は、にゃんごろーにとっては“お使い”であって、冒険にはカウントされていない。
第一、 それは。
にゃんごろーが、自主的に行ったことではなかった。
ネコーの森のピンチだったから。
長老に頼まれたから。
長老にお願いされて、長老を助けるために。
本当はやりたくなかったけれど、長老に説得されて。
食い意地をコントロールされたりもして。
ようやく、なけなしの勇気を振り絞ったのだ。
長老が、獣除けの魔法をかけてくれたおかげもあった。
にゃんごろーは、慎重なところのある子ネコーだった。
これまで、自分から冒険しようなどと思ったことはない。
いつか、美味しいものを巡って世界中を旅してみたいな、などと夢想したりはする。
でも、それは、大人になってからの話だ。
いつか、一人前のネコーになってから、の話だった。
一人で森を冒険するなんて、とんでもないことだと思っていた。
森には、子ネコーを捕まえて食べてしまう、危険な獣がいるからだ。長老からも、「絶対に一人で森に入ってはいけない」と言われていた。
それに。
にゃんごろーには、おとなたちの言いつけを破って、ひとりで森へ冒険に出かけ、獣に食べられてしまった兄弟がいたのだ。
それは、とても恐ろしくて悲しい事件だった。
そのせいもあって、にゃんごろーは子ネコーの割には、慎重だった。臆病……と言うものもいるかもしれないが、本ネコーは「慎重なだけ」と言い張っている。
探検してみよう!――なんて思うようになった、今でも、やっぱり。
一人で森へ行って来いと言われたら、きっと怖気づいてしまうだろう。
あの時のように、獣除けの魔法をかけてもらったとしても、好奇心よりも心細さや獣への恐怖心の方が勝ってしまっただろう。
でも、ここは森ではない。
人間たちの暮らす、安全なお船だ。
お船で出会った人たちは、みんな、いい人ばかりだった。
お船の中なら、危険なことは、何も起こらないはずだった。
そう信じる思いが背中を押して、悲しい事件により封印されていた子ネコーの好奇心が、ひょいと頭をもたげてきたのだ。
――ここでなら、にゃんごろーひとりでも、冒険が出来るかもしれない。
――ここでなら、安全に冒険が出来るに違いない。
にゃんごろーが恐れているのは、危険な獣に食べられてしまうことであって、冒険そのものではないのだ。
『ひとりで出来る、安全な冒険』
それは、慎重派の子ネコーにとって、心をくすぐる魅惑のフレーズだった。
長老が、それを聞いたら、「安全な冒険とは、なんじゃらほい?」と呆れて、水を差したに違いない。
けれど、余計なことを言う長老は、今。
お部屋のカゴベッドの中で、ぐっすりとお休み中だ。
邪魔をする者は、いない。
ツッコミを入れる者も、いない。
長老の目を盗んでの、初めての安全な冒険。
そんな期待に、激しく心を躍らせて――。
にゃんごろーは、すでに何度か通っていて、もはや初めてでも何でもない通路の向こうへと。
まるで、新天地に初めて降り立つ冒険者の気分で、 胸をときめかせながら。
小さなお顔を、そっとお覗かせるのだった。