片方の肉球で、ドキドキと高鳴る胸を宥めるように抑えながら、子ネコーはそっと通路に顔を覗かせてみた。
真ん前には、ドアがある。にゃんごろーたちの部屋にあるのと同じドア。ドアの向こうは、マグじーじのお部屋だ。
まずは、左にお顔を向けてみた。
通路の少し先、あちら側とこちら側に、やっぱり同じドアが見える。マグじーじのお隣がトマじーじで、にゃんごろーたちのお隣がナナばーばのお部屋だ。
通路にお部屋は、全部で四つ。
この階にいるのは、にゃんごろーたちと、じーじたちだけなのだ。
お船見学が楽しみ過ぎたのか、にゃんごろーは随分と早起きをしてしまったようだ。それとも、みんながお寝坊さんなのだろうか?
どのお部屋からも、物音ひとつ聞こえてこなかった。もちろん、通路には誰もいない。みんな、まだ、ぐっすりとお休み中のようだ。
「しー。しじゅかに。みんにゃ、まら、ねちぇるんらから」
片手をお口の前に持ってきて、にゃんごろーは誰にともなくそう言った。
自分に言い聞かせるというよりは、誰かに注意してあげている、といったお顔だ。
今ここで、みんなの眠りを妨げるべく騒ぐものは、にゃんごろーしかいないのだが、そのことを分かっているのかどうかは、定かではない。
今のセリフで、お兄さんぶった気分を味わえたからなのか、子ネコーは「にゃふっ」と満足そうに笑うと、通路左側の様子見を再開する。
子ネコーの視線の先。ナナばーばのお部屋の向こうには、他の階へと続く階段があった。そして、トマじーじのお部屋の向こうには、他の階へと移動するための、エレベーターという魔法の力で動く箱がある。
階段とエレベーターの向こうは突き当りで、にゃんごろーの部屋の窓よりも、もっと大きい丸窓があった。
窓の向こうには、森が広がり、森を抜けた先には、街がある。にゃんごろーたちのお部屋は、お船の高い場所にあるので、遠くまで続く森と、その先の街並みまで見下ろせるはずなのだが、にゃんごろーからはお空しか見えなかった。
窓は、にゃんごろーの頭よりも高い位置にあるので、どうしても、見上げる形になってしまう。そうすると、子ネコーにはお空しか見えないのだ。
昨日は、みんなでゾロゾロと連れ立って通路を歩いていたので、ひっそりと静かな通路をひとりだけで眺めるのは、なんだか新鮮な気分だった。
昨日と同じはずなのに、まったく違う場所に見える。
にゃんごろーひとりで、知らない場所に来てしまったかのようだった。
自分は今、とても凄いことをしているのではないか――?
そんな気持ちになってきて、感慨深いため息をつく。
それから、今度は反対側にお顔を向けてみた。
通路の右には、階段はあるけれどエレベーターはない。突き当りの壁には、同じように、大きな丸窓があった。ここからも、やっぱりお空しか見えない。
どちらから見えるお空も真っ青で、雲一つ見えなかった。
今日も、いいお天気のようだ。
にゃんごろーは、もう一度、左・右と顔を動かしてから、ひょいとお顔を引っ込めた。
それから、またチラッと長老の様子を窺って、まだ眠っていることを確認する。
大丈夫そうだ、と子ネコーは頷いた。それから、お手々を上げたり、下ろしたりしながら、大きく深呼吸を繰り返す。
心臓の奥に、激しいビートを刻む太鼓叩きマスターが住み着いてしまったようなのだ。
気を落ち着けようと、何度か深呼吸を繰り返したけれど、胸のドキドキは治まらなかった。むしろ、どんどん激しくなっていく。太鼓叩きマスターは、ノリにノッているようだ。
全身に鳴り響くドンドコドキドキを聞きながら、にゃんごろーは思い切って、ドアの向こうへと片足を突き出してみた。
右足の肉球が、通路の床にちょいと触れただけで、心臓は空中回転を決める。
にゃんごろーは、「ひゃー」と小さく呻きながらすぐに足を引っ込めて、お耳の手前に両手をあてて背中を丸めた。
「はっ、はっ、はっ!」
空中回転を決めてもなお、太鼓叩きマスターは健在なようで、ぎゅっとお目目を閉じて、荒い呼吸を繰り返すにゃんごろー。
でも、そのお顔は、とても楽しそうだ。
「ふー……」
大きく息を吐きながら、閉じていたお目目を開く。にゃんごろーは、しゃんと背筋を伸ばして、胸の前で「むん」と両手を握りしめた。
それから、また。
チラッと長老が眠っていることを確認する。
「よし」と頷くと、キリッとお顔を引き締め、「はっ!」と小さく気合を入れる。 今度こそ、お部屋の外への第一歩を踏み出そうと、シュッと勢いをつけて右足を突き出す。
片足だけを通路に出した状態で、にゃんごろーは「はー、はー」と息をしながら、お目目を爛々と輝かせていた。
自分の足先を見下ろしながら、ゆっくりと通路の床に向かって下ろしていく。
肉球が床に触れた。
足の先から頭の天辺まで、ビリッと電流が走ったかのような感覚を味わった。
今度は、すぐに引っ込めたりはしない。
今度こそ、やり遂げるのだ。
ゴクリと喉を鳴らしながら、そのまま、ペタリと足を完全に下す。
今度こそ、やり遂げたのだ。
子ネコーは、突き出した片足だけを通路の床に降ろしたポーズのまま、「くぅ~」と背筋を震わせる。
まだ、片足を床につけただけだ。
それなのに、歴史に残る偉大なる第一歩を踏み出した冒険者のように感動している。
だが、本当の冒険は、まだこれからだ。
これからの、はずなのだ。
子ネコーは、左足をお部屋の中に残したまま、「えいや!」とばかりに、通路に身を乗り出した。
興奮のあまり、全身の毛が逆立っている。
残るは、左足だけだ。左足を引き寄せれば、にゃんごろーは完全に通路へと降り立ったことになるのだ。
ぶるっと武者震いをしてから、にゃんごろーはお部屋の中に残されている左足を、「てやっ!」と前に引き寄せた。
でも、すぐには足を下ろさない。片足を上げたままのプルプル状態で、キラキラとギラギラの中間ぐらいにお顔を輝かせている。
もう少し、この偉大なる第一歩の余韻を、楽しむつもりなのだ。
「ちゅいに、ちゅいに、こにょときが……」
両手を水平に広げて、グラグラと体を揺らしながらも楽しそうな子ネコー。
もっとこの時を楽しんでいたかったけれど、グラグラがそろそろ限界だった。
記念すべき一瞬の訪れを引き延ばし過ぎて、転んでしまっては元も子もない。いろいろと台無しだ。
「しょれれは、いじゃ!」
小さな宣誓と共に、グラリと体が大きく揺れた。
慌てて、足を下ろすにゃんごろー。
「ふー」と大きく息を吐くにゃんごろー。
なんとか、ギリギリで、転ぶ前に通路に出ることが出来たようだ。
記念すべき瞬間というよりは、転びかけて足をついただけにしか見えなかったが、子ネコー的には些細な問題だった。
「結果が大事なのだ」とばかりに、危うく転げ出ることになりかけたことは、なかったことにした。
そう、結果が大事なのだ。
ついにやり遂げたこの感動を、心の底から、全身で味わいたいのだ。
「っしゃ!」
予定通りうまくいったというお顔で、小さめの歓声を上げて、ガッツポーズを決めるにゃんごろー。
喜びのあまり、声を潜めることは、すっかり忘れていた。
だって、仕方がない。
子ネコーの大冒険が、ついに始まるのだ。
始まる、はずなのだ。
始まるはず、なのだが……。
始まるのだ、ろうか――?
お部屋のから通路へと始まりの一歩を踏み出した。
今のところ、ただ、それだけだ。
それだけなのに。
それだけで。
「にゃっふーん」
ネコー生をかけた大仕事をやり終えたお顔で、満足の深いため息をつくにゃんごろーなのだった。