あてがわれたネコー部屋から、ひとりで通路へ出てみた。
言ってみれば、ただそれだけのことだ。
それだけのことなのだけれど、子ネコーにとっては――。
「にゃっふーん。…………ふーわーぁ。にゃんごろーは、にゃんごろーは、ちゅいに。いらいなるいっぴょを、ふみらしてしみゃった……」
その小さな一歩は、偉大なる第一歩ということになるようだ。
満足げに、感慨ぶかげにため息をついた後、二度目のガッツポーズを決め、感動のあまりフルフルと体を震わせるにゃんごろー。
本ネコーは、どこまでも至って真剣なのだが。傍から見たら、早起きの子ネコーが、ひとりで“ごっこ”遊びをしているようにしか見えない。
だが、他所からどう見えるかなんて、にゃんごろーには関係なかった。
ひとりで成し遂げた、その達成感を全身で十二分に味わい尽くすと、にゃんごろーはザっと体を左へ向けた。
次なる試練は、もう決まっているのだ。
子ネコーの揺るぎなき視線は、エレベーターへと注がれていた。
ひとりでドアを開けたり閉めたりして、お部屋から出たり入ったりしてみたいな、と心密かに思っていた。けれど、そんなものは、まだ序の口なのだ。
子ネコーの真なる野望は、ひとりでエレベーターを乗りこなせるようになることだった。
あの魔法の箱を自在に乗りこなせるようになれば、長老と一緒じゃなくても、にゃんごろーひとりでお船の中の何処にだって行けるのだ。
まあ、無理にエレベーターを使わなくても、えっちらおっちらと階段を使えばいいのだが、あれはあれで子ネコーには難易度が高いのだ。人間用に作られた階段は、子ネコーにはサイズが合わない。まるで、登山でもしているかのようで、一つ階を移動するだけで疲労困憊……とまではいかないが、かなり疲れるのは間違いない。自由にお船の中を歩き回るどころではないのだ。
お船の人間たちは、あの魔法の箱を普通に使いこなしているようだった。
何でもないことのように、ごく普通に。
当たり前に使いこなしているみんなが、すごくとてもかっこよく見えた。
にゃんごろーも、あんな風になりたいと憧れた。
みんなのように、ひとりでも当然の顔をして、当たり前のように乗りこなせるようになれば、一人前のお船子ネコーになれるような気がした。
「いみゃのにゃんごろーにゃら、いけりゅ!」
エレベーターを見つめながら、にゃんごろーはもう一度、むんと気合を入れた。
それから、自らを奮い立たせるように、のっしのっしと体を傾けながら大股で歩いて行く。
気分はすっかり、出来る子ネコーだった。
よっぽどにゃんごろーのお胸の中の居心地がいいのか、太鼓叩きマスターは、完全ににゃんごろーの中に居座ってしまったようだ。その太鼓叩きの、威勢のいい音の影響か、子ネコーの気分はノリにノッていた。
今なら、何でもできるような気がしていた。
大股に歩きすぎて、少々滑稽なことになっているのだが、子ネコーは勇敢な戦士になった気分で歩みを続け、そして遂に。
「ちゅ、ちゅいた……」
固く閉じられた魔法の箱の前に辿り着いた。
伝承に歌われし幻の神殿に辿り着いたかのような感慨深いお顔で、閉じたエレベーターを見上げるにゃんごろー。
「ろ、ろーしよー……。ろこに、いきょーか……。にゃんごろーひとりで、ろこにれも、いけちゃう」
両手をお顔に当てて、「きゃー」と上半身を左右交互に激しく、かつリズムカルに捻り出す。つられて、尻尾もリズムを刻む。
「んー、れも。やっぴゃり、さいしょは、シャンリュームきゃなぁ」
ピタリ、と動きを止めると、にゃんごろーは顔に当てていた両手を下ろして、エレベーターの上の方を見上げた。
サンルームというのは、窓がいっぱいで植物がいっぱいの、みんなの憩いの場だった。
サンルームのことを教えてくれたのは、東方のサムライ・カザンだ。
サンルームは、カザンがおやつと共に一息入れる場所だった。そして、カザンが、にゃんごろーの兄貴分ネコーであるソランと出会った場所でもあるのだ。
とてもとても興味がある。
サンルームが、一つ上の階にあると教えてくれたのもカザンだ。エレベーターを使ってネコー部屋へと向かっている最中に「そういえば」と教えてくれたのだ。
ここからそう遠くはない、一つ上の階、というのも大変、魅力だった。
ちょっと覗いて、すぐに帰ってくれば、誰にも秘密のまま、安全に朝の冒険を終えることが出来る。
秘密の冒険――というのがまた、子ネコーの心を擽ってくるのだ。
「うん。しょーしよう。あんみゃりとおくへいっちぇ、まいぎょににゃっても、こみゃるもんね。いっこうえにゃら、かえりは、かいらんをつきゃってもいいし……」
カザンには、今度一緒におやつを食べに行こうと誘われていた。もちろん、長老も一緒にだ。
だから、待っていればいずれは、サンルームへ行くことは出来る。
でも、だからこそ。どうせなら。
その時に、「実はこの間、にゃんごろーひとりで……」なんて告白出来たら、素敵だと思うのだ。
きっと、カザンと長老はびっくりするに違いない。
特に、お船では、いつもにゃんごろーと一緒の長老は、「いつの間に」と目をまあるくすることだろう。それから、「なかなか、やるな」と褒めてくれるかもしれない。
想像するだけで、もう嬉しさが込み上げてくる。
「ええー? みょー、ふちゃりともー、ほめしゅぎらよー。うふふふふ」
まだ、エレベーターに乗り込んでもいないのに妄想だけが先走ってしまったらしく、にゃんごろーは、また両手を頬にあてて、イヤイヤの仕草を始める。
浮かれるあまり、随分前から声を抑えることを忘れていたが、何事かと通路へ顔を覗かせる者はいなかった。
お部屋の中までは声が届かなかったのかもしれないし、聞こえていたからこそ、何やら楽しそうな子ネコーの邪魔をしてはいけないと、お部屋の中から聞き耳だけを立てているのかもしれなかった。
「ふー……。しょれれは、いじゃ。えーと、まじゅは、シュイッチをおしちぇ、はきょをよばにゃいと、ドアがあきゃないんらよね……?」
妄想の中の長老とカザンに散々褒められまくって満足したのか、にゃんごろーは長い息を吐き出すと、キリッとお顔を引き締めた。抜かりなく魔法の箱を動かすための手順を確認しながら、扉の右側の壁にある箱を呼び出すボタンを見上げる。
上向きの三角形と下向きの三角形が、上下に二つ並んでいる。
にゃんごろーには、ジャンプしても届かない場所にワンセット。頑張れば何とか届きそうな場所にもうワンセット。
あのスイッチを押せば、箱がやって来て扉が開く仕組みになっているのだ。
「ちょう!」
子ネコーは気合の掛け声と共に渾身のジャンプを決めた。
下向きの三角形を、肉球がパシンと叩いた。
すると、下向き三角がオレンジに光る。
箱の呼び出しに成功したのだ。
上向き三角と下向き三角の違いまでは、分かっていなかった。
ついでに、箱の中に乗り込んだ後、どのボタンを押せばサンルームのある階に行けるのかも、分かっていなかった。
このままだと、無事に乗り込んだはいいが、その後どうしたらいいのか分からずに、立ち往生する羽目になりそうだ。その内、自動でドアが閉まったら、閉じ込められたとパニックに陥る可能性もある。
子ネコーの大冒険は、始まりから既に、波乱の気配が濃厚に漂っていた。
とはいえ、にゃんごろー本ネコーは、首尾よく進んでいると思っている。
一度で箱を呼び寄せるのに成功したことで、かなり気が大きくなっていた。
「や、やっちゃ!」
初めての冒険は順風満帆だと信じて疑わない子ネコーは、むふんと鼻息を荒くした。
もうすぐ、妄想した通りの未来が訪れるはずなのだ。
ワクワクしながら待っていると、チロンと到着をお知らせする可愛い音がして、滑らかに扉が開いた。