クロウは、カザンと横並びになっているため、通路の端際にいた。壁際スレスレというわけではないが、まあ通路の端と言えば端だ。真ん中ではない。
通路の端っこ側で、笑いを堪えているクロウ。
ということは。つまり。これは。
『端っこマスター』の修行に違いない!
――――と、子ネコーは閃いてしまったようだ。
ちなみに、『端っこマスター』とは。
とある子ネコーが『箸が転がってもおかしい年ごろ』を『端っこで寝っ転がると楽しい気分になる』と解釈したことにより生み出された言葉である。その成り立ちには、とある長老ネコーのいたずら心も関与していた。
自分のお部屋の中であれば、好きなだけ端っこで寝っ転がって楽しくなっていればいい。だが、お部屋の外にいる時は、いくら端っこといえども寝っ転がるのはお行儀が悪い。ならば、どうしたらいいのか?
『端っこで寝っ転がっている自分を想像するだけで楽しい気分になればいいのだ!』
この境地に達したものが『端っこマスター』である――――というのが、とある長老ネコーの教えだった。もちろん、その場のノリで適当を言っただけの出鱈目だ。正真正銘の出鱈目だった。けれど、とある子ネコーは素直にそれを信じた。
そして。
適当な長老と信じた子ネコーにより、初代『端っこマスター』の称号を授かったのが、クロウなのだ。クロウに続くマスターが、今後現れるかどうかは定かではない。今のところ、初代にして唯一の『端っこマスター』だ。
にゃんごろーは、ポムポムポムと肉球拍手を送って、端っこマスター・クロウを称えた。
「はじめちぇのちゅーろらで、さっしょく、しょぎょーを……! しゅごい! えらい! さしゅが、はしっきょマシュター!」
笑いを堪えているクロウには、何がすごくてえらいのか、さっぱり分からなかったが、にゃんごろーはキラキラと本心からクロウを褒め称えている。
端っこスイッチが入ってしまったクロウには、それすらも可笑しくて、息も絶え絶えだった。
そこへさらに、追撃が入った。
にゃんごろーがあまりにも楽しそうなので、マグじーじとカザンまで、一緒になって拍手を送り始めたのだ。
「うむ。確かに、見事な端っこっぷりじゃな!」
「ああ。称賛に値するな」
「ね! しょーらよね!」
クロウを褒め称えながらも、マグじーじとカザンの視線はにゃんごろーにのみ注がれている。本心から言っているわけではないことは明らかだったが、気づかない子ネコーは嬉しそうな笑顔を二人に向けた。二人の拍手に負けないようにと、肉球ポムポムを激しくする。
人間二人が本心から言っているわけではないのは分かっているのだが、いい大人が子ネコーと一緒になってくだらないことを真面目に褒め称えているのが、クロウにはまた可笑しかった。
耐え切れなくなったクロウは、よろけて壁に手を突こうとして、何とかギリギリ耐えた。出来ることなら、そのまま壁へもたれかかりたかったのだが、必死で堪える。
透明なようでいて先が見通せない不思議な青い壁は、迂闊に触ったら、壁の中に飲み込まれて永遠の迷子になってしまいそうな気がしたからだ。クルーである自分が子ネコーよりも先に迷子になってしまう事態は、何としても避けたいところだ。それに、得体の知れない魔法空間に取り込まれてしまうことへの、純粋な恐怖心もあった。
壁に触れないように、クロウは足を踏ん張った。うっかり手を伸ばしたりしないように、腕組みをして、指の先にグッと力を込める。
何とか笑気を治めようと、目を閉じて外界の全てを遮断しようと試みた。ふと心に浮かんでくる、「自分は一体、何の修行をしているのだろう?」という疑念を振り払い、呼吸を整えることだけに集中する。
努力の甲斐あって、呼吸は落ち着きを取り戻してきた。
だが。
そこで油断して、うっかり目を開けてしまったのが命取りだった。
大きく息を吐き出しながら目を開けたクロウの視界に映し出されたのは――――。
子ネコーの『ポムポムにゃー』だった。
はち切れんばかりの笑顔で、クロウの方に向かって、肉球ポムポムと万歳にゃーを繰り返す子ネコー。
「ぱちぱちぱち! にゃー! ぱちぱちぱち! にゃー!」
「ぶふっ……!」
肉球が上手く鳴らないからか、ポムポムに合わせてお口で「ぱちぱち」言い出している。
クロウは堪らず吹き出した。
よろめいて壁に肩をぶつけ、そのまま、もたれかかる。
青い壁は、ちゃんとクロウの体を支えてくれた。そのまま、どこか別の場所へすり抜けて行ったりはしないようだ。
けれど、その事実に気づくような余裕は、クロウにはなかった。
壁にもたれたまま、クロウの体はズルズルと滑り落ちていく。手のひらで壁を抑えることで、ギリギリ何とか床に膝をつけることは免れた。
だが、端っこの女神様は、クロウにさらなる試練を与えた。
目の前に、もふもふお手々が、にゅにゅっと飛び出してきたのだ。
小さなもふもふお手々は、クロウの鼻先でポムポムしてから、「にゃー」と万歳をした。何度も繰り返される、ポムポムとにゃー。それから、お口での「ぱちぱち」と嬉しそうなお顔。
そのすべてが、クロウの笑点に突き刺さった。
「ぱちぱちぱち! にゃー! ぱちぱちぱち! にゃー!」
「うっ、ぐふっ、も、も……やめ……くっ、ふははははははは!」
「もう、止めてくれ!」という心の叫びは、声として結ばれることなく、笑い声に飲み込まれていった。