カランとベルの音が鳴り響き、コンソメのいい匂いが鼻腔を擽る。
青猫カフェの店内に入ると同時に、それまでクロウの腕の中で、くてれんスヤァと眠りこけていた子ネコーのお鼻がヒクンと動いた。「お?」と見下ろすクロウの視線の先で、にゃんごろーはパカリとお目目を開いた。
「おいしぃにおいが、しゅる!」
お目覚め後の第一声が、それだった。
お目目を輝かせ、涎が飛び散りそうな勢いで身を起こすにゃんごろー。コンソメの香りで目を覚ました子ネコーは、美味しいお昼ごはんの気配を感じてすっかり元気を取り戻したようだ。
「よう、おはよう。いいタイミングで目を覚ましたな? ちょうど店についたところだぞ?」
「ふぉお! ちゅいに! あきょられにょー! おちょにゃのおみしぇ! カフェー!」
クロウは、子ネコーの食いしん坊ぶりを笑いながら床に降ろしてやった。輝く笑顔で床に降り立ったにゃんごろーは、はしゃいだ声をあげた。
にゃんごろーが、お昼ごはんの前に無事目を覚ましたことに、みんな胸を撫でおろしていた。子ネコー大泣きの大参事は、これで免れたのだ。
長老の言った通りになった。
これで、何の憂いもなくお昼ごはんを迎えられると、食いしん坊ではない面々も思っていた。コンソメの匂いが漂う中、一同の心がフッと緩んだ。
だが、実は。それは、間違いだった。
確かに、『寝ている間にお昼ごはんが終了しちゃって子ネコー大泣き大参事』は回避できた。
けれど、まだ。
中惨事の危機は去っていなかったのだ。
そのことに、誰も気づいていなかった。
長老ですら、気づいていなかった。
にゃんごろー本ネコーもまた、気づいていなかった。
床に解き放たれたにゃんごろーは、その後に待ち受ける運命に気づかないまま、うきうきと自ら中惨事へと向かって行った。
具体的には、いそいそと青い猫の絵が描かれた白いドアの前へと進んで行った。ドアの前に立ち、ときめきを宿した瞳で青い猫を見上げるにゃんごろー。
「きょのドアのむきょうに、あきょがれにょ、おちょにゃのしぇきゃいが、まっちぇいりゅ…………! い、いじゃ! おちょにゃらしきゅ、おちちゅいちゃ、ちゃいどれ!」
「いや、何処へ行くんだよ? そっちは、店の外だぞ?」
「ほにょ?」
憧れの大人の世界に、既に足を踏み入れていることに気づかないまま。その憧れに向かって一歩踏み出すために、「落ち着いたおとなの態度で臨まねば!」と居住まいを正す子ネコーにクロウが待ったをかけた。
子ネコー的には寝耳に水の情報を聞かされて、にゃんごろーは不思議そうなお顔でクロウを振り返った。しばらく、不思議そうなお顔のままでクロウを見つめた後、もう一度ドアに描かれた青い猫に視線を戻す。お口が半開きの不思議そうなお顔は健在だ。
青猫を見上げたまま、にゃんごろーはこてっと首を傾げて尋ねた。
「…………もしかしちぇ、きょきょは、みょー、おみしぇのにゃきゃ、にゃの?」
「お、おう。そう……だけど?」
「だから、きょんにゃに、いいにおいが、しちぇるんだ…………」
「まあ、そういうこと、だな?」
「いちゅのまに、しょんにゃこちょに…………?」
「……………………おまえが、寝ている間に……かな?」
にゃんごろーのお相手を務めたのは、ドアに描かれた青猫ではなく、クロウだった。助手としての義務感に駆られて、というわけではない。にゃんごろーからの質問の切っ掛けとなる言葉を放ったのが自分だったので、話の流れ的に「ここは、俺の役目か?」と思ったからだ。
問答を続けるうちに、子ネコーのお顔から表情が消えていった。尋ねる声からも、次第に感情がなくなっていく。
大参事を回避してほっと一安心のはずだったのに、なんだか雲息が怪しくなってきたと、誰もが気づき始めていた。
食いしん坊のイメージが強すぎて、ごはんにさえ間に合えば問題ないだろうと思い込んでいたのだが、どうやらそうではないようだった。
「しょ、しょんにゃ…………。あきょがれの、おみしぇへの、はりめちょえの、だいいっぴょが…………。おちょにゃらしきゅ、できりゅよーに、こっしょり、れんしゅーしちぇちゃのに…………。はじめちぇは、みょう、もろっちぇこにゃい…………。ろーしちぇ、きょんなこちょに…………?」
ドアに描かれた青猫を見上げながら、にゃんごろーは自前のもふもふをフルフルと震わせた。最後の言葉と共に、くっと俯いてお目目を閉じると、その目尻に何かがキラッと光った。
にゃんごろーが楽しみにいていたのは、カフェでのお洒落で美味しいごはんだけではなかったのだ。
『おとなのためのお店』――――そのものへの、憧れがあった。
そして、また。その、大人の場所への第一歩を踏み出すこと、入店の儀式をおとならしい態度でやり遂げようと思い憧れ、そのための練習までしていたというのだ。
憧れの場所での体験の全てを楽しみにしていたのだ。
食いしん坊な理由だけで憧れているのだと思い、ギリギリまで寝かせておいてやろうと気をきかせたことが裏目に出てしまったようだ。そうと知っていれば、入店前に何としてでも叩き起こしたのだが、こうなってしまっては後の祭りだ。
歓びの舞を踊るほど楽しみにしていたのに、このままでは肝心のお昼ごはんをちんやりした雰囲気で迎える羽目になってしまいそうだ。
入店の儀はもはや叶わないが、それでも何とか地に沈んだ子ネコーの気分を浮上させて、ランチタイムを心から楽しんでほしいと青猫クルーたちは願った。けれど、うまいフォローが思い浮かばない。青猫クルーたちは、救いを求めて長老へ視線を送った。
この状況を打破できるのは、長老しかいない!――――というか、ここまでは所謂“織り込み済み”というヤツで、落としたところで上げるいつものやり方を実行しようと手ぐすね引いて待ち構えているのでは?――――と予想して期待した。
けれど、その予想と期待は大きく裏切られた。
いつもなら余裕のお顔で子ネコーを言いくるめ、涙に濡れたお顔を笑顔に変えてきた長老が、この時は全く役に立たなかった。見るからに役に立たなかった。長老ですら想定外の事態だった…………というわけではない。いや、そうなのかもしれないが、そうなのかどうかすら分からない有様なのだ。とりあえず、今この場で長老は何の役にも立たない、と言うことだけは、一目瞭然だった。
長老は、爆音を轟かせるお腹に両手を当てて、虚ろな瞳を店内に向けていた。まるで、生ける屍のようだ。長老の空腹が、臨界点を突破してしまったのだ。子ネコーの中惨事に気づいているのかどうかすら怪しい。たとえ、気づいたとしても、子ネコーの中惨事が“織り込み済み”の事態だったとしても。意味のある言葉を発することが、そもそも出来なさそうだ。
これは、もう、万事休すか!?――――――――と、誰もが絶望したその時。
救世主が、現れた。
その救世主は、キラキラとした輝きを身に纏っていた。