ここは、おとなのためのお店なのだから、大泣きしたらダメだ――――と、俯いて静かに涙を零す子ネコーの頭をポムポムと撫でて宥める者がいた。
キラキラアクセサリーを全身にまとった三毛柄の女の子ネコー、キララだ。
キララは、お姉さんみのある笑顔で、こう言った。
「泣く必要なんて、ないわよ。つまり、にゃんごろーは、特別なお店の初めてで、“逆さま”を初経験しちゃったってことなのよ!」
「…………しゃかしゃま?」
俯いていたお顔を上げて、お目目の周りにキラキラをまとわせたにゃんごろーがキララを見つめた。涙の膜で、にゃんごろーのお目目もキラッと光った。
にゃんごろーは、「ほわぁっ?」とお口を開けて、しばらくキララを見つめた後、お辞儀を仕掛けて思いとどまり、代わりにやろうとしたことをお口で説明した。
「しゃかしゃまっちぇ、ペコリってしちぇ、あしとあしのあいだきゃら、しぇかいをのぞいちぇ、“しゃかしゃまーっ!”…………って、こちょ?」
どうやらお辞儀ではなく、屈伸をして足と足の隙間から向こう側を覗いて『逆さまの世界』をやろうとしていたようだ。途中でやめたのは、おとな的ではないなと思ったからだろう。
キララは、口元にお手々を当てて、「ふふっ」と笑った。
「ううん! その“逆さま”じゃないわよ!」
「ほわ? じゃあ、どの“しゃかしゃま”にゃの?」
キララのお話にすっかり引き込まれたにゃんごろーが尋ねると、キララは両手を腰に当てて、「ふふん!」と反り返ったポーズで“逆さま”の解説を始めた。
「ふつうは、お店に入る時には、ドアを通って中に入るでしょ?」
「うん」
「でも、にゃんごろーは、ドアを通らないで、先に中に入っちゃったのよ」
「う、うん」
眠っている内にクロウによって店内に運ばれてしまったというだけで、「ドアを通っていない」は語弊があるのだが、誰も余計な口は挟まなかった。にゃんごろー視点では、確かにドアを通っていないのだし、それで子ネコーの気分が浮上するなら、それでいいのだ。それが、一番なのだ。
「ドアを通らないでお店に入ったってことは、お店から出る時に初めてドアを通るってことなの」
「う、うん」
「つまり、それが“逆さま”ってことなのよ!」
「ほ、ほうほう。ちゃしかに」
ガッと力を込めて言い切るキララの勢いに押されて、にゃんごろーから「ほうほう」が出た。おとなからしてみれば「だから?」と言いたくなる論法なのだが、キララの熱意と勢いに、にゃんごろーは飲まれつつあった。
キララは、「ふふん」と笑って駄目押しをした。
「これって、特別なことよ?」
「と、とくべちゅ……?」
特別の一言が、子ネコーの心を擽った。にゃんごろーは、「そこのところを、もっとくわしく!」とばかりにキララににじり寄る。
「そう! 特別! すごく、特別! “逆さま”は、狙って起こせることじゃないの! 時たま起こる、とっても特別なことなの! にゃんごろーは、特別なお店の初めてで、特別な“逆さま”をしちゃってってことなの! これって、特別に特別なことよ?」
「しょ、しょっか……。にゃんごろー、しゃかしゃまで、とくべちゅにゃ、とくべちゅに、なっちゃったんら…………」
近づいて来るにゃんごろーのお顔を避けたり押しのけたりせず、キララはキラッキラの笑顔で断言した。「ほわおぅ……!」と見開かれたにゃんごろーのお目目の端から、残っていた涙がウロコのように零れ落ちていく。
さっきまでどん底にいたのに、今は世界が、キララのアクセサリーにも負けないくらいに輝いて見えた。その中心に、キララの笑顔があった。
「あ、それと、もう一つ。伝えておかないといけない、とっても大事なことがあるんだけど」
「う、うん! なあに? キララ?」
「ふつうの子ネコーはね。お店に入る時には、おとならしくふるまえても、お店を出る時には、油断して子ネコーに戻ってしまうものなの」
「はっ! ちゃしかに! しょのちょーりきゃも!」
「つまり、最後まで、気を抜いてはダメなの!」
「う、うん! うん、うん!」
「いい? 最後まで、気を抜いちゃダメよ?」
「うん!」
「最後にドアを通ってお外に出る時に、にゃんごろーの練習の成果を見せてもらうわ!」
「はっ!………………う、うん! まかせちぇ! にゃんごろー、しゃいごまで、おちょなネコーとしちぇ、がんばりゅ!」
特別に特別な経験をしただけでなく、今まで練習してきたことが無駄ではないと教えられて、にゃんごろーの瞳と心の奥に火が灯った。炎は暖かい光で、にゃんごろーを照らしていく。
もはや、何の憂いもない。これで、楽しみにしていたカフェでのランチタイムを、心の底から楽しめる。どうなることかと成り行きを見守っていた外野組も、ほっと表情を緩ませた。
クルー組は、そつなく“練習”のくだりまでフォローしたキララの手腕に感心してもいた。キララをよく知るミフネは「さすがですねぇ」という顔で目を細めている。長老は、店の奥へと魂を飛ばしていた。
さて、キララのおかげで、すっかり元気を取り戻したにゃんごろーだったが、グスッと鼻を鳴らし、お手々のもふもふでお顔の涙を拭った後、ハッとしたお顔で濡れたお手々を見つめた。
「あ、れも…………。にゃんごろー、ちょっぴり、ないちゃった。だいりょーぶきゃな? もしかしちぇ、もう、おちょにゃが、だいにゃしになっちぇないきゃな?」
「そんなことないわ! 大声で泣いたりしないで、えらかったとおもうわ」
入店の儀をやり損ねたショックでちょっぴり泣いてしまったにゃんごろー。そのせいで、『おとなのお店でおとならしくふるまおう計画』を台無しにしてしまったのでは、と心配になってしまったようだ。
けれど、キララは笑顔でドンと胸を叩いた。そして、大泣きしなかったことを褒めてくれた。
「ほ、ほんちょに?」
「もっちろん! 成長を感じたわ! おとなへの階段を上ってるわね!」
「にゃんごろー、おちょにゃへの、かいだんを…………」
「そうよ!」
「にゃ、にゃふふ…………」
「ふふ。さ! いつまでも、入り口の前にいたら、他のお客さんの邪魔になっちゃうわ! 予約のお席まで行くわよ!」
「はい!」
子ネコーふたりで笑いあった後、キララはサッと切り替えて、肉球を店内へと向けた。まだお昼の鐘が鳴る前だったおかげもあって、幸い来店者は一人もいなかったが、そろそろ移動しないとマズイ。にゃんごろーは片手をもふっと上げて、笑顔で答えた。いいお返事だ。
それを聞いたマグじーじが、「そうじゃった!」と慌てて店内へと目を向け、一行を案内しようとしたが、それよりも早く動いた者がいた。
屍長老だ。
屍になりつつも「進んでよし!」の気配だけは敏感に察したのだろう。むしろ、ひとりで先に進まず、これまで待ってくれていたことの方が奇跡的だった。
席の場所は分かっているのか、屍の割には素早い動きで、迷いなく店の奥へと突き進む長老。
置いていかれた一行は、顔を見合わせて小さく笑った。
それから、フサフサと揺れ動く長老の尻尾の後を追いかけるのだった。