「この名前はね、彼がつけてくれたの。初恋の……彼が。おまえが“やま”で、オレが“もと”な…………って。だから、この名前は、わたしにとって、とても大切な名前なの」
胸元に手を当てて、そっと囁くようにやまーは言った。
伏せた瞳の先で、長い睫毛が細かく震えている。
乙女!
乙女だ!
乙女な理由、来たよ!
えー! それは、ありだよー!
やまーでも、もとーでも、どっちでもありだよー!
いやーん。まさか、そんな乙女な理由とは!
何その名前、とか思ってて、ごめんなさい!
いやー、もう。ね?
今となっては、闇底で一番輝いている魔法少女の名前だよ!
いーなー。
初恋の彼と、同じ苗字かー。
二人とも山本さんで、それを二人で分け合ったってことなんだよね?
あーん。初恋の彼に、あだ名をつけてもらえるとか!
羨ましーーーー!!!
「もう、“もと”には会えないけれど。でも、彼からもらった、この名前だけは大切にしようって……」
やまーの声が、静かに震えた。
ハッと気づいて、あたしは、ぶわっと涙腺が決壊しそうになった。
そうだ。
そうだった。
一度闇底に彷徨い込んだら、もう二度と地上には、あの現実の、日常の世界には戻れないんだ。
やまーはもう二度と、“もと”には会えないんだ。
もとが、“もと”の方が、闇底に彷徨い込んで来たりしない限り。
でも、そんな偶然、そうそう起こるはずないし、起こっても困るし。
それに、下手に闇底に彷徨い込んだりしたら、きっと妖魔に食べられちゃう。運が良ければ、
うん、ダメ。
もとは、闇底には来ちゃいけません。
「でも、それでも、どうしても彼に会いたくて、寂しくて。最初のころは、“もと”の人形を作って、いつも彼と一緒にいた」
ふぐぅううううっ。
やまー。やまぁああああああ。
う、ぐすっ。
は、鼻水が…………。
「最初のうちは、人形の“もと”で満足できた。“もと”そっくりの人形といつでも二人でいられるだけで、それだけで幸せだった」
うん、うんうん。
「だけど、ある日。話しかけても何も答えてくれない彼に、ついカッとなって…………。彼への思いが暴走してしまったの」
うん、うん…………ん?
「あー。あれは、ひどかったよねー。運悪く居合わせちゃったんだけどさー。猟奇殺人形事件って感じだったー。あちこち千切れてるしー、人形だし血が出ないのだけが救いだったっていうかー。まあ、でも中身がいろいろ飛び散ってたよねー」
「“もと”の中には、わたしの思いをたくさん詰め込んでおいたから……」
……………………。
その反応、何かおかしいよね?
だって、猟奇殺人形って、何!?
中身って、何!?
何が詰まっていたの?
そして、何が飛び散っちゃったの?
「その後は、残骸を近くの丘の上に埋めて、二人で一応お葬式をしたんだよねー」
「そう。叶わなかったわたしの恋と一緒に、あの丘の上に、“もと”を埋葬したの」
埋葬したのが恋心だけなら、美しくも切なく悲しい恋の物語なのに。
人形とはいえ、“もと”の残骸も埋葬されていると思うと、正直、涙も鼻水も吹っ飛ぶんですが……。
しかも、“もと”をスプラッタのスクラップにしちゃったことを後悔しているって感じでもなく、なんか普通にうっとりと陶酔しているのが、ちょっと怖いんですけど……?
なんで、美しい思い出みたいになっちゃってるのかなー?
いや、猟奇殺人形とか、残骸とか言っているのは月見サンの方だけどさ。やまーも、特に否定も反論もしてないし、全然気にしてないふうなんだけど!?
てゆーか、月見サンもサバサバしすぎ!
「ま、この子はこんな感じの子だからさ。深入りしすぎず、さらりと通り過ぎていく方向で! ね!」
月見サンが、お日様のようにカラリと笑う。
月見サン…………。
ん、まあ。出来れば、あたしもそうしたいかなー、なんて思っちゃったりはしてるけど。
面と向かってこんなこと言われているのに、なんも気にしてないふうで、儚く微笑んでいるやまーが、むしろなんか怖い。
恐ろしく怖い。
「でさー。自己紹介が済んだところで、聞きたいことがあるんだけどさ。最近、どこかで月華見なかった? あ、どこかで見かけたとかいう、噂だけでもいいんだけど。何か知ってたら、教えてくれない?」
ああ。それまでの流れを一切無視して、サラスパッと自分の望む方向へ話を持っていく月見サンのそのスキル、ある意味羨ましいです。
自己紹介が済んだって言ってますけど、ちょ~一方的じゃないですか。あたし、まだ名前くらいしか名乗ってませんよ?
今となっては、それで正解だった気がするけど。
なんか、もうアレなんで、お話は二人に任せて、あたしは観客に徹することにした。
した。
したのに。
したその先から、なんかやまーの様子がおかしなことになってますけど!?
うん、なんかね?
今まで、ずっと伏せていた瞳をカッと見開いて闇空を見上げちゃっていて、ね。
それで、瞳孔が開いちゃってるのが、ホント怖い。
「月華…………。クールでストイック。凛々しくも美しいあのお方」
あー。
やまーも、月華信者かー。
間違ってないけど、美化されちゃってる気もする。
信者だから、しょうがないのかもしれない。
「ああ。あのお方が、男の人だったら良かったのに。そうしたら、わたしは地上のことなんてすべて忘れて、あのお方のためだけに闇底を生きていけるのに」
うっとり陶酔してますけど、“もと”への思いはどこ行った!?
月見サンの「で、結局、何か知ってるの? 知らないの?」という空気を読まない催促の声を完全無視して、一人ふるふるしていたやまーだったけど、突然ピタッと動きを止めた。
何やら、目にヤバい光が浮かんでいるような?
「そう、そうね。どうして、今までこんな簡単なことに気が付かなかったのかしら。“もと”の人形なんて、作っている場合じゃなかった。そう、そうすればいいんじゃない」
「えーっと。一応、聞いておくけど、何をどうするつもりなの?」
いつも我が道を行く月見サンが、さすがにちょーっと引きつった顔で、片手を上げて問いかける。
やまーは、今初めて月見サンの存在に気が付いたみたいな顔で、月見サンの顔を見つめた。
それから、ふふっと可憐に笑う。
紅桃の妖精のような可憐さとは違う、ちょっと怪しい、妖怪のような可憐さ。
いや、ここは闇底だから、妖魔のような可憐さというべき?
…………なんか、違うな。
「あなたたち、月華を探しているんでしょう? それ、わたしも一緒に行くから。月華に、用事があるの」
え? え!?
ちょっと、待って?
何、勝手に宣言してくれちゃってるの?
いや、一緒にって、ちょっと!
かなり本気で勘弁してほしい!
半泣き状態で、縋るように月見サンを見つめる。
天下無敵な月見サンも、さすがにご遠慮願いたいのか、顔が完全に引きつっている。
でも、刺激して変なふうに怒らせちゃうのが怖いのか、月見サンにしては遠回しなお断りの文句を遠慮がちに口にする。
「えっとぉー。ほら、あたしたち、急いでるから空の旅をしてるのよねー。で、この空飛ぶ竹ぼうきも二人乗りだしー。何か情報を手に入れたら、やまーにも教えるからさ。別行動ってことで、どうかなー?」
「問題ない。わたしも飛べばいいんでしょ?」
もみ手でも始めそうな月見サンに、やまーは不敵に笑って見せた。
「あなたたちに出来て、わたしに出来ないはずがない。今までは、必要がなかったから歩いていただけ。“もと”への哀悼を込めて、闇底を巡っていたから。でも、もう必要ないから。わたしも、空を飛ぶことにする」
それから、やまーは小首を傾げて考え込んだ後、一つ頷いた。
ひっそりと囁くように呪文を唱える。
「フラワースカイフィッシュ」
すると。
やまーの体が、草むらからふわりと浮き上がった。
草むらの上。やまーの足元には。
小花を集めて作ったお魚の形のボードがあった。
スケボーとか、スノボみたいな、ボード。
小花柄じゃなくて、小花を集めて作った、お魚の形のボード。
フラワーは、まあこの際いいとして。
スカイフィッシュ、どこから来た…………。
「ほら、問題ない」
満足そうに呟くと、やまーはそのまま空へと昇っていく。
たぶん。試し飛びをするんだろう。
きっと、しばらく帰って来ないに違いない。
飛ぶのって、楽しいもん。
これが初体験なら、なおさら。
飛ぶのに夢中になって、しばらくはあたしたちのことなんて、忘れてるはず。
だから、この隙に逃げちゃいたいなー…………。
って思いを込めて月見サンに視線を送る。
月見サンは、渋い顔をして首を横に振った。
えー!? どうしてですか、月見サン!?
「あきらめて、
「そ、そんな…………」
あたしは、がっくりと項垂れる。
「それに、やまーの方が先に月華に出会っちゃったら、なんかそれも面倒なことになりそうだし、見張っといた方がよくない?」
「う……それは…………。あの、月見サン」
「ん?」
「やまーの思いついたことって……。月華への、用事って…………」
「………………。星空ちゃんの想像通りだと思うなー」
「そ、そんなこと、出来るんですか!? しかも、相手は月華ですよ? 他の魔法少女相手ならまだともかく。あたしたちは、月華に力をもらって魔法少女になったわけだから、当然月華の方が力が強いってことですよね? なのに、そんなこと、本当に出来るんですか?」
「んー……。普通なら、無理だと思うけど。奴らならやりかねない気もするんだよね。あの執念の末に、無理やり不可能を可能にしちゃいそうな気がしないでもなくってねー……」
「……………………」
無言になったあたしたちの上に、はらはらと小花が落ちてくる。
上空では、フラワースカイフィッシュが高速で行ったり来たりしていた。
月華に会いたいというやまーの用事。
それは、たぶん。
魔法で月華を男の人にしちゃえー!
ってことだと思う。
たぶん。
間違いない。
しかも、月華本人にやってもいいかとか確認しないで、勝手にやっちゃいそう。
でもって、何がいけないの? とか、言いそう。
いや、でも、うん。
それ、やったらダメなやつだから。
やったら、ダメなやつだから。
「なんか。雨上がりの魔法少女って感じですよね。やまーって」
「んんー? あー、確かにしっとりと濡れたような感じの女の子だよねー…………って、はっ! もしかして、今の! 雨が止んでるのと病んでるをかけてる!?」
竹ぼうきを片手に疲れたように立っていた月見サンが、バッと勢いよくあたしに顔を向ける。心なしか、嬉しそう。
あたしはそれには答えずに、ちょっと気まずげに視線を逸らす。
その通りです。
とは、さすがに言えない。
逸らした視線の先では、ぼんやりと光る玉が風に揺れている。
草原に降りる前に見つけた、ホタルモドキよりもずっと大きな光る玉だ。
リンゴくらいの大きさの玉は、植物の実だか花だかのようで。
細長い茎の上で、ぼんやり光りながらゆらゆらと風に揺らされているのだ。
地面から吊るされたちょっとおしゃれな照明器具みたいだなー。
なんて。
あたしはぼんやりとそう思った。