〔※紬/回想〕
美嗣の世話は、いつも母がしていた。
その小さな体を抱きしめるたび、温もりが胸の奥へ静かに染みていく。
けれど――あの日、私は偶然にも親戚夫婦の家から母のもとへ帰っていた。
そして、滅多に帰宅しない父までもが、ふらりと家へ戻ってきた。
酒の匂いが漂い、荒れた笑い声が部屋の空気を重くする。
父は、酒を飲むと人が変わる。
穏やかだった優しさは影を潜め、荒々しい言葉と暴力だけがそこに残る。
私は、じっと息を潜めた。
怒りの矛先が、自分に向かわないようにと――
しかし、その日は違った。
父の視線は、美嗣へ向かっていた。
まだ言葉も話せない、小さな美嗣に。
(やめて……! お父さん、お願い……!)
鼓動が高鳴る。
私は、美嗣を抱きしめ、震える腕で必死に守ろうとした。
けれど、父の怒声が空気を裂いた。
「うるさい! 泣き止ませろ!」
荒々しく振り上げられる腕。
私は、美嗣を庇い、ぎゅっと目を閉じる。
鈍い音が響き、頬に熱いものが飛び散る。
息が詰まる。
恐る恐る目を開くと、信じがたい光景が広がっていた。
床に倒れた美嗣――額から赤い雫がこぼれる。
「美嗣……! 美嗣……!」
必死に名前を呼びながら抱き上げる。
しかし――彼女は何の反応も示さない。
父はただ呆然と立ち尽くしている。
そして、次の瞬間――玄関の扉が開いた。
母が帰ってきた。
だが、その顔に驚きの色はない。
まるで何も感じていないかのような冷たい目――
「お母さん!? 何してるの……何してるのよ!」
声が震え、家じゅうに響き渡る。
美嗣の姿を見た瞬間、息を呑んだ。
「美嗣……! 美嗣……!」
駆け寄り、震える手で抱きしめる。
「お願い……目を開けて……!」
必死に呼びかけるが、美嗣は微動だにしない。
私は、父を睨みつける。
「お父さん……! お父さんが美嗣を……!」
そして、母にも視線を向ける。
「お母さん……どうして……どうしてなの……!」
憎しみと怒りが燃え上がる。
けれど――私の言葉は宙を舞い、虚しく消えた。
父も母も、何も言わない。
父はただ、酒瓶を手に取り、無言で喉へ流し込む。
母は黒いポリ袋を淡々と広げている。
何が起こったのか、理解できなかった。
ただ、美嗣の冷えた体を抱きしめることしかできない。
少しずつ、そのぬくもりが消えていく。
(美嗣……! 美嗣……!)
どれだけ叫んでも――もう届かない。
両親を、決して許さない。
必ず――償わせる。
そう、心に誓った。
けれど、この道のりは険しく長い。
両親は、狂気に染まっていた。
もはや、人としての心を失っているのかもしれない。
そんな二人に、どう立ち向かえばいいのか――
答えは見えないまま、深い絶望が押し寄せる。
それでも、諦めるわけにはいかない。
美嗣のためにも、両親を止めなければならない。
私は、復讐のために、すべてを賭ける。
***
※次話では現在から始まります。