白い天井がゆっくりと視界に落ちてくる。
(ここは病院……?)
最後に見たのは、夕焼けに染まる商店街のアーケード。
「ハルちちゃんー!!」
遠くで親友アキの声がした気がした。
いつもの少し心配そうなトーンで。
直後、けたたましいクラクション、体が宙に浮いた感覚。
(ああ、事故に遭ったんだ)
"大丈夫ですか、ハルさん?"
優しい女性の声。看護師さんだ。心配そうな瞳がこちらを見つめている。
「どこか痛みますか?」
「いえ、大丈夫だと思います」
かすれた声は自分のものじゃないみたい。
体には不思議と痛みがない。奇跡的だと後で言われるかもしれない。
でも、看護師さんは少し眉をひそめた。
「何か……変な感じはしませんか?」
変な感じ?言われてみれば、頭の中がぼんやりと霧がかかったみたいだ。
事故のせいか、ただ眠いだけか、分からない。
数時間後、硬い表情の医者がMRIの画像を見せて告げた。
「原因不明の脳の病気です。ハルさんの場合、残念ですが、この数日以内に記憶を失ってしまう可能性が高いでしょう」
は?記憶を失う?
まるでSF映画だ。信じられない。昨日のことも、今日の朝ごはんも覚えているのに。
でも、医者の目は真剣だった。
冗談じゃない。大切な人たちの顔が次々と浮かぶ。
女手一つで育ててくれたお母さん。
喧嘩ばかりだけど、誰より心配してくれる。疲れて帰ると、温かい味噌汁が待っている。
生意気だけど優しい弟。
たまにあたしの好きな甘いものを買ってきてくれる。最近は頼りがいが出てきた。
親友アキ。
私の突飛な行動にハラハラしながらも、必ず味方でいてくれる。
「これ、ハルちゃんに似合いそう」
雑貨館で微笑んでくれる。
優しい笑顔の店長。
ドジなミスにも穏やかに
「次は気を付けてね」
忙しい時には、そっとお菓子をくれる。
子ども食堂のメメさん。
明るくパワフルで太陽みたい。美味しいご飯と笑顔の中心にいる。売れ残りのタオルを持っていくと、すごく喜んでくれる。
"ありがとう!"の声が元気の源だった。
そして……聡子主任。
思い出すと胸が痛む。厳しくて細かい注意ばかり。仕事の要領が悪い私にとって、天敵みたいな存在。
「ハル!また伝票の数字間違えてるじゃない!」
「いい加減にしてよね、本当に!」
主任の鋭い声が耳に残る。顔を合わせるたび、嫌味を言われた気がする。犬猿の仲だった。
でも一度だけ、私が大きなミスで落ち込んだ時、誰も見ていないところで、主任が温かい缶コーヒーを置いてくれた。
その時、厳しい顔の奥にある優しさに気づいた気がした。
もしかしたら、主任なりに心配してくれていたのかもしれない。不器用なだけ……。
これから、みんなの記憶を失ってしまうらしい。
全部、頭の中から消えてしまう。
まるで最初から存在しなかったみたいに。
そんなの、嫌だ!まだ、ちゃんと"ありがとう"を伝えられていない人がたくさんいるのに。
お母さんには、育ててくれた感謝を。
弟には、これからも頼りにしてるって。
アキには、いつも支えてくれてありがとうって。
店長には、もっと仕事ができるように頑張りますって。
メメさんには、いつまでも元気でいてくださいって。
そして……聡子主任には、あの時のお礼と、本当は感謝していたことを、ちゃんと伝えたい。
でも……、もう時間がないのかもしれない。明日、明後日には、みんなのことを忘れてしまうかもしれない。
病室の白い壁を見つめながら、押し寄せる悲しみに胸が締め付けられる。
大切な宝物を一つずつ、自分の手で手放していくような感覚。
どうか、せめてみんなの笑顔だけは、心の片隅に、ほんの少しだけでも残っていてほしい。
茜色の夕焼けが、もうすぐそこに迫っている気がした。
それは、あたしにとっての、記憶の終わりを告げる色なのかもしれない。