「お母さん……」
記憶を全て失う。
その過酷な診断を告げられた日。ハルの手を、母の温かい掌がぎゅっと包み込んだ。
"大丈夫よハル。お母さんは、いつだってハルの側にいるから"
その言葉は、母の瞳に浮かぶ涙と相まって、静かにハルの胸に染み渡った。
ハルの頭の奥で微かな既視感が揺れる。
その言葉は、どこか懐かしい響きを帯びていた。
——あれは、クロが虹の橋を渡った日。
「ねえ、ママ。クロはパパと同じところに行ったんだよね?」
「そうよ。クロはお空の上で幸せに暮らしているわ。今頃きっとパパと遊んでいるかもしれないね。
クロはね、ずっとハルの心の中で生き続けるの。
だから、ハルが大きくなっても、たまにはクロのことを思い出してあげて。
きっとクロも喜んでくれるはずよ」
「うん……。でも、私寂しいよ……お母さん!」
「ハル……」
小さな箱に眠る愛猫の姿を前に、幼いハルは声を上げて泣き続けた。
——親友が引っ越しのために遠くへ去っていった日。
傷ついた心にそっと寄り添う母の声。
それは、ハルの心が打ちひしがれるたびに、まるで光のように彼女を守ってくれたのだ。
胸に蘇るのは、あの日々に感じた温もり。
ハルの頬を、静かな涙が伝った。
「
あの冬の日。仕事で怒られて肩を落としながら帰宅した夜。
部屋のドアに、弟の幼い字で書かれたメモが貼ってあった。
「はるねえちゃん、おふろわかしてあるよ。
それと、ぼくのプリンもうぜったいかってにたべないでよ」
風呂場には、ハルの好きないちごの入浴剤が浮かんでいた。
リビングでゲームに夢中な弟からは、
「暇だったからかってにわかしただけ!」
とそっぽを向かれたけど、ハルには弟の照れ隠しが少し可笑しかった。
「アキ……」
初めての給料を貰い、アキを誘った遊園地で、ジェットコースターに乗るかで言い合いになったっけ。
「ハルちゃん高所恐怖症でしょ。
やめときなって!」
強がるハルに笑うアキ。
二人で叫びながら乗った後、ハルはふらふらの足でソフトクリームを分け合った。
夕焼けの観覧車で、
「ハルちゃんといると毎日が冒険みたいだね」
とアキが笑った。
そのキラキラした笑顔が、今でも心に宝石みたいに光っている。
「店長……」
勤め先で初めて任されたレジ締めの日、緊張のあまりミスばかりしてしまった。
閉店後、店長は笑顔で
「ちょっと付き合って」
と言いながら空き缶を並べ始めた。
「ほら、ストレス発散よ! 次で取り戻せばいいから」
店の裏口で夜空を仰ぎながら、缶が倒れる音にハルはいつの間にか笑っていた。
「メメさん……」
子ども食堂に古着を持って行ったあの日、びしょ濡れのハルを見たメメさんがタオルを差し出してくれた。
「ハルちゃん、風邪引くよ!」
と明るい声。おしるこの甘さと彼女の笑顔が、雨の日の重さをすっかり吹き飛ばしてくれた。
「主任……」
繁忙期の残業で叱られた後、主任が呼び出した場所は屋上だった。
差し出されたコンビニのおにぎりと、一言。
「……まあ、食べて頑張れ」
冷たい夜風の中、主任の意外な一面が、ハルの心にじわっと染みた。
「ハル、ぼーっとしてないで! 風、気持ちいいだろ?」 聡子の声で、ハルはハッと我に返る。涙がヘルメットの縁を伝い、風に飛ばされる。
聡子はそれを見ず、ただアクセルを強く握った。