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第30話 明日"せかい"が終わるんだって②

「お母さん……」

記憶を全て失う。

その過酷な診断を告げられた日。ハルの手を、母の温かい掌がぎゅっと包み込んだ。


"大丈夫よハル。お母さんは、いつだってハルの側にいるから"


その言葉は、母の瞳に浮かぶ涙と相まって、静かにハルの胸に染み渡った。


ハルの頭の奥で微かな既視感が揺れる。

その言葉は、どこか懐かしい響きを帯びていた。

——あれは、クロが虹の橋を渡った日。


「ねえ、ママ。クロはパパと同じところに行ったんだよね?」


「そうよ。クロはお空の上で幸せに暮らしているわ。今頃きっとパパと遊んでいるかもしれないね。

クロはね、ずっとハルの心の中で生き続けるの。

だから、ハルが大きくなっても、たまにはクロのことを思い出してあげて。

きっとクロも喜んでくれるはずよ」


「うん……。でも、私寂しいよ……お母さん!」


「ハル……」


小さな箱に眠る愛猫の姿を前に、幼いハルは声を上げて泣き続けた。


——親友が引っ越しのために遠くへ去っていった日。

傷ついた心にそっと寄り添う母の声。

それは、ハルの心が打ちひしがれるたびに、まるで光のように彼女を守ってくれたのだ。


胸に蘇るのは、あの日々に感じた温もり。

ハルの頬を、静かな涙が伝った。


築志つくし……」

あの冬の日。仕事で怒られて肩を落としながら帰宅した夜。

部屋のドアに、弟の幼い字で書かれたメモが貼ってあった。

「はるねえちゃん、おふろわかしてあるよ。

それと、ぼくのプリンもうぜったいかってにたべないでよ」

風呂場には、ハルの好きないちごの入浴剤が浮かんでいた。

リビングでゲームに夢中な弟からは、

「暇だったからかってにわかしただけ!」

とそっぽを向かれたけど、ハルには弟の照れ隠しが少し可笑しかった。


「アキ……」

初めての給料を貰い、アキを誘った遊園地で、ジェットコースターに乗るかで言い合いになったっけ。

「ハルちゃん高所恐怖症でしょ。

やめときなって!」

強がるハルに笑うアキ。

二人で叫びながら乗った後、ハルはふらふらの足でソフトクリームを分け合った。

夕焼けの観覧車で、

「ハルちゃんといると毎日が冒険みたいだね」

とアキが笑った。

そのキラキラした笑顔が、今でも心に宝石みたいに光っている。


「店長……」

勤め先で初めて任されたレジ締めの日、緊張のあまりミスばかりしてしまった。

閉店後、店長は笑顔で

「ちょっと付き合って」

と言いながら空き缶を並べ始めた。

「ほら、ストレス発散よ! 次で取り戻せばいいから」

店の裏口で夜空を仰ぎながら、缶が倒れる音にハルはいつの間にか笑っていた。


「メメさん……」

子ども食堂に古着を持って行ったあの日、びしょ濡れのハルを見たメメさんがタオルを差し出してくれた。

「ハルちゃん、風邪引くよ!」

と明るい声。おしるこの甘さと彼女の笑顔が、雨の日の重さをすっかり吹き飛ばしてくれた。


「主任……」

繁忙期の残業で叱られた後、主任が呼び出した場所は屋上だった。

差し出されたコンビニのおにぎりと、一言。

「……まあ、食べて頑張れ」

冷たい夜風の中、主任の意外な一面が、ハルの心にじわっと染みた。



「ハル、ぼーっとしてないで! 風、気持ちいいだろ?」
聡子の声で、ハルはハッと我に返る。涙がヘルメットの縁を伝い、風に飛ばされる。


聡子はそれを見ず、ただアクセルを強く握った。


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