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第63話 【追憶】初恋〔アミュリタ視点〕

〔アミュリタの回想〕


あの夜のことは、今でも私の中で静かに毒を回している。


当時8歳だった私は、司祭の娘として初めて父と共に、隣国の王宮を訪れた。

境を越える時の馬車の揺れは、普段よりも少しだけ興奮を誘った。

朝霧の中に浮かび上がったその城は、まるで異世界のように華やかで、どこか冷たかったけれど、私はただただ胸を躍らせていた。


「物怖じしないで。堂々としていなさい」

父の言葉に背中を押されるようにして、大広間へと足を踏み入れた。

目を見張るほどのシャンデリア、絹を纏った貴族たち、奏でられる音楽の美しさ――すべてがまぶしく、私はまるで夢の中にいるみたいだった。

おとぎ話に出てくる王子様やお姫様みたいだ、なんて、幼い私は無邪気にそう思ったのだ。


広間の片隅で、私は小さく困っていた。

少しお手洗いに行きたくなったのだが、いつの間にか、使用人が私の靴を靴棚の高いところに入れてしまっていたのだ。

背伸びをしても、指先すら届かない。

周りには忙しそうに行き交う大人たちばかりで、声をかける勇気も出ず、途方に暮れていた、その時だった。


「姫様、何かお困りですか?」

ハッと顔を上げると、そこに立っていたのは、星のように輝く瞳を持つ、隣国の第三王子だった。

年は私よりずっと上だけれど、柔らかな笑みを浮かべ、私の小さな目線に合わせるように、少しだけ膝を折ってくれていた。


「あの、お靴が、届かなくて……」

私が小さな声で答えると、王子はすぐに状況を察してくれた。

彼は迷うことなく、さっと棚に手を伸ばし、私の小さな絹の靴を優雅に取り出してくれたのだ。


「おや、これは高いところにありましたね。これでよろしいですか?」

私の足元にそっと靴を置いてくれるその仕草は、とても丁寧で、まるでガラス細工を扱うようだった。

その優しさに、私の胸は初めての「キュン」という感情で満たされた。



謁見の時間が近づき、母が新調してくれたきらびやかな履物を履いた時だった。

少し大きめのそれは、歩くたびに私の小さな足の甲に擦れて、みるみるうちに水ぶくれができてしまった。

痛みをこらえながら立っていると、足元がふらつき、思わず壁に手をついてしまった。


「姫様、大丈夫ですか?」

再び、王子が私の傍に歩み寄ってきてくれた。彼の視線が私の足元に向けられ、水ぶくれに気づいたようだった。


「これは……大変ですね。少しお休みになりませんか?」

彼はそう言うと、周囲に目配せし、すぐに静かな小部屋に案内してくれた。



小部屋には誰もいない。王子は侍女を呼び、手早く薬と包帯を持ってこさせた。


「痛むでしょう? 少し我慢してくださいね」

そう言って、彼は自らの手で、私の小さな足を優しく持ち上げた。

冷たい薬がひりひりとしたけれど、彼の指先から伝わる温かさに、不思議と痛みは和らいだ。彼は慣れた手つきで水ぶくれに薬を塗り、そっと包帯を巻いてくれた。


まるで、私専属の騎士のようだった。

「これで少しは楽になるはずです。無理はなさらないでくださいね。」

彼の言葉は、私の心をじんわりと温めてくれた。

私は彼の優しさに、すっかり心を奪われていた。

王子様って、本当にこんなに優しいんだ、と。



大広間に戻っても、王子は私を気にかけてくれた。

「このお広間は、少し騒がしいかもしれませんね。姫様は、もっと静かな場所がお好みですか?」

私の顔をじっと見つめ、困ったように眉を下げて尋ねる姿は、まるで本当に私のことを心配してくれているようだった。


私が小さく頷くと、彼はにこりと微笑んだ。

「では、参りましょう。素晴らしい絵画の並ぶ回廊があります。姫様は絵はお好きですか?」

彼の差し伸べた手は、私を急かすことなく、ゆったりと広間のはずれへと誘ってくれた。

まるで私のペースに合わせてくれているかのように、歩調を緩めてくれる。

人目を避けるように静かに、だが決して不審には思わせない自然な仕草で。

その紳士的な態度に、私は何の疑いも抱かなかった。


月明かりに照らされる静かな回廊は、まさに彼の言葉通り、壁一面に美しい絵画が飾られていた。

彼は一枚一枚の絵の前で立ち止まり、その絵にまつわる物語を、私にも分かるように易しい言葉で語ってくれた。

私が興味を示すと、彼は目を細めて嬉しそうに頷いた。


「姫様は、本当に感受性豊かなのですね。その輝く瞳で、いつかご自身でも美しいものを見つけられるでしょう」


その言葉が、私の幼い心をくすぐった。


そのとき、微かに胸騒ぎがしたのに――言葉にできない小さなざわめきが胸に広がったのに、私は、自分の直感を信じなかった。


ただの気のせいだと、幼い私はそう思い込もうとしたのだ。

なぜなら、彼がこんなにも親切で、私のために時間を割いてくれているのだから。


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