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第65話 【追憶】レティシアの支え〔アミュリタ視点〕

※本話では、演出上やむを得ず、トラウマ描写などのセンシティブな表現が含まれている箇所がございます。

『こういうのが苦手』という方は、一話飛ばして〔大切なダチだから〕の冒頭に該当部分をあらすじとしてまとめていますので、そちらから続きをご覧ください。


この物語は、法律や法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。



〔アミュリタ回想〕続き


レティシアが私を抱きしめ、早足で廊下を進む。

その腕の中にいても、私の体はひどく震えが止まらなかった。

まるで氷水に浸かったかのように、全身が冷え切っている。

顔を上げた先に広がる豪華な王宮の景色も、今はただのぼやけた色と形にしか見えない。

耳の奥では、まだあの下卑た笑い声が、地の底から響く呪いのようにこだましていた。


「アミュリタ様、怖かったでしょうね。

でも、もう大丈夫ですよ。

大丈夫、もう心配ありませんから……」


レティシアの声が聞こえる。

優しく、そして必死に。けれど、その声は私の心には届かず、ただ空虚な響きとなって消えていく。


私の意識は、目の前の現実からずるりと滑り落ち、あの醜い王子の顔に囚われていた。

あの優しい瞳は、あの柔らかな微笑みは、一体なんだったのだろう。

すべてが偽りだった。

私を弄ぶためだけの、巧妙な芝居だったのだ。


レティシアが、呼吸の乱れる私の背中を摩りながら、近くの控室へと連れて行ってくれた。


そこは、奥まった場所にある、使用人用の質素な部屋だった。

中に誰もいないことを確認すると、レティシアは私をそっと床に座らせ、自分も隣に膝をついた。


「アミュリタ様、お辛かったでしょう……」

レティシアの言葉が、私の凍り付いた心を微かに揺らした。


顔を上げると、レティシアの瞳は、私と同じくらい揺れ動いていた。

彼女の顔には、心からの痛みと、どうしようもないほどの慈しみが浮かんでいる。

その表情を見た瞬間、これまで張り詰めていた何かが、ぷつりと音を立てて切れた。


「レティシア……っ」

かすれた声が漏れ、次の瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出した。


真っ赤に、そして醜く、化粧の落ちた私の顔からは、

大粒の涙がとめどなく頬を伝い、ひざの上に置かれた私の小さな手に、熱い雫が次々と落ちていく。


「嘘よ……嘘つき……っ」

震える声で呟くと、レティシアは何も言わず、ただ私の背中を優しく擦り始めた。

その温かい掌の感触が、私を現実へと引き戻す。

喉の奥から、しゃくりあげるような嗚咽が漏れた。


「あんなに……優しかったのに……!

わたしの、靴を……っ、水ぶくれを……っ」

言葉が途切れ途切れになる。

脳裏に焼き付いた優しい王子の姿と、男たちと嘲笑いながら私を侮辱した王子の姿が、交互にフラッシュバックする。

どちらが本当の彼なのか。

いや、もう分かっていた。

本当の彼は、あの醜い顔で笑っていた方だ。

私の純粋な憧れを踏みにじり、嘲笑ったあの男こそが、彼の真の姿なのだ。

「私、王子様のこと……っ、信じてたのに……っ、憧れてたのに……っ!」

小さな両手で顔を覆い、しゃがみ込んだまま、声を上げて泣いた。


これまで感じたことのない、底知れない絶望が、私の胸を締め付けていく。

王宮に抱いた夢も、王子への淡い恋心も、すべてが泡のように弾けて消えた。


残ったのは、痛みと、屈辱と、そして深い不信感だけ。


「わ、わたし、汚い……っ、気持ち悪い……っ」

彼の冷たい手が私の服に触れた瞬間の感触が、鮮やかに蘇る。

あの手が触れた場所が、まるで毒に侵されたかのように、ひどく熱く、そして冷たく感じられた。


彼の言葉が、私という存在そのものを否定するかのようだった。

私は「チョロいガキ」で、「つまらない」存在。

そう言われた自分の価値が、音を立てて崩れていく。



そこへ、レティシアが、そっと私の頭を抱き寄せた。

彼女の腕の中で、私はまるで壊れた人形のようにぐったりと身を預ける。


「アミュリタ様は、何も汚くなんかいらっしゃいません。

王子が、あの男が、間違っていたのです。

アミュリタ様は、清らかで、美しいお心のままです。

どうか、ご自分を責めないでください……」

レティシアの声は震えていたけれど、その言葉はまっすぐ私の心に響いた。

彼女の腕の温もりが、私の冷え切った体を少しずつ溶かしていく。


「でも……っ、王子様が……っ、あいつが私のこと……」

言葉にできないほどの悲しみと、理不尽な怒りが、私の中で渦巻いていた。

どうして、こんな目に遭わなければならなかったのだろう。

たった一度の出会いで、私の心は引き裂かれ、純粋な部分は粉々に砕かれてしまった。



どれくらいの時間が経っただろう。

私の嗚咽は、やがて静かなすすり泣きに変わっていった。


その間レティシアは、ずっと何も言わずに私を抱きしめ続けてくれた。

その無言の支えが、今の私には何よりも心強かった。


「レティシア……わたし、どうしたらいいとおもう……?」

顔を上げると、レティシアの瞳はまだ潤んでいたけれど、その奥には強い光が宿っていた。


「アミュリタ様……。

私たちが、アミュリタ様をお守りします。

二度と、あのようなお辛い思いはさせません。

そして、いつか、この悲しみを乗り越える日が必ず来ます。

大丈夫です。

私たちが、ずっとそばにいますから……」

レティシアの言葉が、私の心に深く染み渡った。


まだ、あの夜の出来事が鮮やかに心に残り、恐怖と絶望は消えていない。

けれど、レティシアの温かい腕の中で、私は確かに、ほんのわずかな光を感じた気がした。

それは、この悪夢のような出来事の中でも、私を支えてくれる希望の光だった。


あの夜以来、私は男性の指が肌に触れそうになるたびに、体が過去に引き戻される。

男の人が笑って近づいてくるだけで、胸が苦しくなって、世界が狭くなる。

夜中に何度も目が覚めるし、人混みも怖くなった。 鏡に映る自分の顔を見るたびに、あの王子の言葉がフラッシュバックする。


「チョロかったんだ」「つまらねえな」


「平気よ」って、何度も自分に言い聞かせてきたけれど――本当はちっとも平気なんかじゃない。


私の時間は、まだ、あの夜で止まっている。

あの冷たい視線と、ねっとりとした手の感触が。

そして……、私を嘲笑ったあの醜い笑い声が、ずっと消えてくれない。


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