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第66話 【追憶】大切なダチだから

※裏切り〜前回までのあらすじ〔アミュリタの回想〕


幼いアミュリタは司祭の娘として隣国の王宮を訪れ、夢のように美しい光景に胸を躍らせる。しかし、親切に見えた王子との関わりの中で、彼女は信頼を踏みにじられるようなつらい経験をする。彼女を守ろうとする侍女によって危機は避けられたものの、事件の後、アミュリタの心には深い傷が残った。

アミュリタは待女の前で涙を流す。


時間が経った今も、ふとしたきっかけであの夜の記憶が彼女を苦しめる。誰にも言えず、「平気」と言い聞かせながらも、その夜に受けた衝撃と恐怖が、彼女の中で色あせることはない。


※この後、アミュリタの回想は終わり、話は元の時代に戻ります。




「バカな奴だな、そいつ……」


カムラが低く、けれど内から突き上げる激情を抑えるように、かすれた声で言った。

怒りに焼かれたようなその言葉には、冷たい鉄のような重さがあった。


「王子だって? 地位がなんだよ。

名前や立場が、あんな所業を正当化できると思ってるのか?

アミュリタにそんなことしやがって、どの面下げて生きてんだか……」


石垣の向こうから吹く夜風が、木の葉をざわつかせる。

怒りを代弁するような風音が、ふたりの間に緊張の糸を引いた。


アミュリタは、胸の奥で疼く記憶に耐えるように視線を落としていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。

カムラの顔が月明かりに照らされていた。

眉間には深い皺、唇はわずかに震えている。

怒りの炎に燃えるその瞳の奥に、アミュリタは別の色を見た。

それはまるで、彼女の傷を自分のことのように感じている者の、痛みの色だった。


「私……怖かったの。心の底から、震えるくらいに……。でも、今まで誰にも言えなかった」


声が震える。喉の奥がつかえて、言葉がにじんだ。


「待女の叔母さんだけは私に優しかったけど、

他の誰に話しても、皆、"王子に選ばれて光栄だ"って……私の苦しみより、"名誉"ばかりを称えたの」


アミュリタの瞳が潤んでいた。

吐き出した言葉が静けさの中に滲んでいく。

息を呑むような夜の空気が、そのひと言ひと言を包み込んだ。


カムラが黙って手を伸ばした。

その仕草には、何のためらいもない。

ただ真っ直ぐに、彼女のもとへ。


やがてカムラの指先がアミュリタの手の甲に触れた。

硬く、少しざらついたその感触は、カムラが多くを語らずとも歩んできた道のりを物語っていた。

けれど、そこには確かな温もりがあった。


「アミュリタが……話してくれて、うれしいよ」


その声には、怒りとは違う揺らぎがあった。


「……うれしい?」


驚いたように問い返すアミュリタに、カムラは小さく、けれど深くうなずいた。


「そう。あたしに、そういう顔を見せてくれてよかったって思う。

アミュリタは、ずっと強くあろうとしてる。

誰にも弱さを見せずに、立ってきたんだろ。

でも……もう、泣いてもいいんだよ」


その言葉に、アミュリタの視界がぼやけた。

熱が頬に差し、胸の奥で凍てついていた感情が、少しずつ解けていくようだった。


「……カムラちゃん……。

あなたは、どうしてそんなに、私のことを……?」


問いかけは、かすかな期待にも似ていた。

彼女の声は、思わず漏れた心の悲鳴だ。


カムラは笑わなかった。

ただ、まっすぐに彼女の瞳を見据え、言葉を紡いだ。


「決まってるだろ。アミュリタが……あたしにとって、大切なダチだからさ」


その言葉はまるで呪文のように、アミュリタの心の奥に沁み込んだ。

彼女は何も言えず、ただその場に佇んでいた。

けれどその沈黙には、確かなぬくもりと、揺れ始めた想いがあった。


空には無数の星が浮かび、夜の帳をやさしく彩っている。

こぼれ落ちる星の光がふたりの影を地に落とし、その影たちすらも寄り添っていた。


立場も、階級も――この夜だけは、何も意味をなさなかった。

ただ、お互いの存在だけが、確かだった。


だが、その穏やかな時間は、永遠ではなかった。


神殿の奥から、かすかな気配が忍び寄っていた。


風が一瞬止む。

すると、草を踏む微かな音が、静寂を割るように響いた。

誰かが、こちらに向かって歩いてくる。

ゆっくりと、だが確実に……。



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