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第68話 【追憶】忘れられぬ影

父達とカムラの村を去ってから月日は流れ、

アミュリタが17の歳になった頃。


乾いた風が河のほとりをなで、灯籠の炎を細く揺らしていた。

寺院からは読経の音が流れ、香が静かに夜気へとしみ込んでいく。


アミュリタは、腰まで伸びた黒髪をまとめながら、沐浴場の縁にしゃがみ込んだ。

陽に焼けた石畳の温かさが、足の裏にじわりと残っている。


「また、遠くを見てる」


隣で声をかけたのは、サーリカー。

最近仲良くなった、商人の娘――バラモンの血筋ではないが、好奇心と勇気に満ちた笑顔を持っていた。


「……そう見える?」


「うん。目がね、祈ってるときの僧侶みたいになるの。どこか、今にいない感じがするのよ」


アミュリタは微笑んだ。

けれどその笑みはどこか、影をはらんでいた。


私は、過去の中にいるのかもしれない――カムラの中に。


彼女にもカムラのことを語ったことはなかった。

アウトカーストだったカムラの存在は、バラモンであるアミュリタにとって、社会的には”語るべきではない記憶”だったから。

けれど、アミュリタの心の深い場所に、カムラは今も生きていた。


「ねえ、アミュリタ。どうしていつも、"身分"や"規律"の話になると沈んじゃうの?」


「……気づいてた?」


「当たり前。私、けっこう見てるんだから」

サーリカーは得意げに笑うが、その瞳はどこか憂いを含んでいる。


――この子、私をとてもよく見ている。


「この国って、そういう風に決められた形の中で人を裁いちゃうけど……、人の痛みとか、本当はそんな単純じゃないでしょう?」



アミュリタの胸には、ふいに風が通り抜けたような感覚が広がっていた。




その日の夕暮れ、寺院の裏にある小道を歩いていたときだった。

アミュリタは一人の青年に出会う。


質素な衣をまとい、腕には小さな傷が走っている。

明らかにバラモン階級ではない者の姿。

だが、その瞳だけは、どの祈祷師よりも深く透明だった。


「……そこの方、水を分けていただけないだろうか」


言葉は礼を尽くしながらも、どこかためらいを含んでいた。

周囲に人がいないのを確かめるようにして、アミュリタは頷く。


「ええ、どうぞ」


水瓶を差し出す指先が、わずかに震えていたのは、なぜだったのか。


彼の掌が水を受けたその刹那――

見知らぬはずの彼の横顔が、不思議とカムラと重なった。


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