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第69話 【追憶】ナーヤカ

それからというもの、アミュリタとその青年――ナーヤカは、誰にも知られぬよう、夜更けの果樹園跡で密かに会い続けていた。

小さな祠の脇、古びた菩提樹の下。

遠くに法師の読経が聞こえる時間帯。人々が眠りに落ちるその少し前。


「……今日も来てくれて、嬉しいよ」

ナーヤカの声は、土の上に落ちた夜露のように柔らかだった。


「こちらこそ。お父さまに文献の写しを頼まれて抜け出す口実ができたの」

アミュリタは、彼の前だけで見せる安堵の笑みを浮かべていた。


バラモンとアウトカースト。

本来であれば、視線さえ交わすことすら、戒律で禁じられた間柄だった。

けれど、出会った時からアミュリタはナーヤカと話すことに、何ひとつ違和感を覚えなかった。

むしろ、それは誰よりも自然な呼吸だった。




「アミュリタ、聞いてもいいかい?」


焚き火越しにナーヤカがじっと彼女を見つめる。

その瞳に、揺れる火が映っていた。


「なに?」


「どうして、君はそんなに……自由なんだい?」

言葉は慎重で、まるで祈るように低く。


「"自由"? 私が?」


「君はバラモンの娘だ。信仰も、階級も、何もかもが違うのに、僕とこうして話すことを恐れない。それは……どうしてだろうって、ずっと考えていたんだ」



アミュリタは少しだけ考えたあと、菩提樹に背を預けながら静かに息を吐いた。


「昔、大切な子がいたの。彼女は……私とまったく違う場所に生まれた。でも、心だけは、どこまでも近くにあった。……それを知った時、私がそれまで当たり前に信じていたすべてが、少しずつ崩れていったの」


「……その子の名は?」


「――カムラ」


その名前を口にした途端、火がはぜる音がやけに大きく響いた。




ナーヤカは静かに頷いたあと、何も言わずにそっとアミュリタを抱きしめた。

それは彼なりの、感謝の仕草だったのかもしれない。

あるいは、ごく自然な彼女を心配する真心だったのかもしれない。


だがアミュリタは、そんな彼からの深い愛情を受け入れることができなかった。


「ごめんなさい……」


「ううん、急にびっくりしたよね?

ごめんね」


未だ、心の奥には、カムラの影が色濃く残っていたから。




そして、月が満ち、五たびの逢瀬を重ねた夜。


アミュリタはいつもより少し早く着き、小さな布をそっと広げた。

その中には、自ら握った供物――カシャヤ米に香辛料で味つけした蜜煮入りの団子が二つ。

内には、細かく刻んだ蓮の実と、バターで炒めたサグ粉を包み込んだ。

それは、遠い異国でいう「おにぎり」にどこか似ていた。


「ナーヤカ。今日は……これ、作ってきたの。食べてくれたら、嬉しい」


彼は目を見開き、少しだけ唇を震わせた。


「……君が、僕のために?」


「"あなたのために"……作ったのよ」

小さな冗談を添えるように、アミュリタはそっと笑った。


すると、ナーヤカの目に、初めて見る涙が浮かんだ気がした。


ナーヤカはおずおずと団子を手に取った。

焚き火の橙のゆらめきが、彼の頬にあたたかく映る。

ひとつ、そっと口に運んだ瞬間、その表情がゆっくりと綻び始めた。


「……ん。これは……」


まぶたを閉じ、舌で転がすようにして味を確かめたあと、そっと微笑んだ。


「すごく、やさしい味だ。

香辛料がほんのり香って……それでいて、この甘さ……なんて言うんだろう、胸の奥に懐かしさが広がるんだ。

まるで、子どものころに、一度だけ食べたお祭りの菓子みたいだよ」


その言葉に、アミュリタの目がふっと大きくなり、唇が少し震えた。

やがて彼女は、ほっとしたように笑みを咲かせた。

まるで、風にほどける花のように。


「本当に……? そんなふうに言ってもらえるなんて……」

彼女は頬に手を当てて、小さく首を傾げた。


「ふふっ、それじゃあ私の修行も、少しは役に立ったのね。

お台所に忍び込んで、何度もやけどして……もう、指先がまだちょっとヒリヒリしてるのよ?」


そう言って、アミュリタは指をこっそりナーヤカの方に見せた。


彼はそれを見て、今度は少し真剣な表情で、静かに頷いた。


「そんな手で、僕のために……ありがとう。

これはきっと、どんな高僧の供物より、僕の魂に沁みる」


アミュリタの瞳が潤む。

笑みの奥に、言葉にできない想いがゆっくりと芽吹いていた。


「もうひとつ、あとで取っておこうかな。

もったいなくて、一気に食べるのが惜しい」


その様子に、アミュリタは思わずくすっと笑った。


「ふふ、それなら……また、作ってあげる。

次はもっと上手く、ね」


小さな約束のように、彼女はそっと指先でナーヤカの袖をつまんだ。


そのとき、菩提樹の葉が風に揺れ、ふたりの間にやさしい葉音をひとつ、奏でた。




「アミュリタ。今日は……君に伝えたいことがあるんだ」


彼は姿勢を正し、静かに言葉を継いだ。


「アミュリタ・サンターティ。どうか……僕と共に、生きてくれないか?」


世界が、ひとしずく、音を落としたようだった。



アミュリタの胸がふるえた。

彼の声はまっすぐで、嘘も飾りもなかった。

ただ一心に、彼女を求めていた。


だが――


「わたし……」


唇が震えた。

言いたいことが、言葉になる前に。


「私は――、


(カムラを忘れられないの……だから、

今はまだ……)


「ごめんなさ……」



けれど、その言葉が終わる前に。


ナーヤカの身体が跳ねる。

瞳が大きく開かれ、喉がひきつける。

手からおにぎりが滑り落ち、唇が異様なほど鮮やかな赤に染まっていく。


「ゔ、――苦しい、アミュ……ッ!」


「ナ、ナーヤカ!? なにこれ……!? 何が起こって……ッ!!」



土の上に倒れた彼の体は、数度震え、やがて静かに、動かなくなった。


地面に散った香辛料の匂いと、血の鉄錆が入り混じる。



アミュリタはただ呆然と立ち尽くし、震える手を胸に当てたまま、その場を動けなかった。


風が一陣、祠の灯火を吹き消していった。

月が静かに、雲の奥に身を隠した。



――これが、運命の断絶。

アミュリタが"神"の道を歩み始める、第一の犠牲だった。


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