それからというもの、アミュリタとその青年――ナーヤカは、誰にも知られぬよう、夜更けの果樹園跡で密かに会い続けていた。
小さな祠の脇、古びた菩提樹の下。
遠くに法師の読経が聞こえる時間帯。人々が眠りに落ちるその少し前。
「……今日も来てくれて、嬉しいよ」
ナーヤカの声は、土の上に落ちた夜露のように柔らかだった。
「こちらこそ。お父さまに文献の写しを頼まれて抜け出す口実ができたの」
アミュリタは、彼の前だけで見せる安堵の笑みを浮かべていた。
バラモンとアウトカースト。
本来であれば、視線さえ交わすことすら、戒律で禁じられた間柄だった。
けれど、出会った時からアミュリタはナーヤカと話すことに、何ひとつ違和感を覚えなかった。
むしろ、それは誰よりも自然な呼吸だった。
「アミュリタ、聞いてもいいかい?」
焚き火越しにナーヤカがじっと彼女を見つめる。
その瞳に、揺れる火が映っていた。
「なに?」
「どうして、君はそんなに……自由なんだい?」
言葉は慎重で、まるで祈るように低く。
「"自由"? 私が?」
「君はバラモンの娘だ。信仰も、階級も、何もかもが違うのに、僕とこうして話すことを恐れない。それは……どうしてだろうって、ずっと考えていたんだ」
アミュリタは少しだけ考えたあと、菩提樹に背を預けながら静かに息を吐いた。
「昔、大切な子がいたの。彼女は……私とまったく違う場所に生まれた。でも、心だけは、どこまでも近くにあった。……それを知った時、私がそれまで当たり前に信じていたすべてが、少しずつ崩れていったの」
「……その子の名は?」
「――カムラ」
その名前を口にした途端、火がはぜる音がやけに大きく響いた。
ナーヤカは静かに頷いたあと、何も言わずにそっとアミュリタを抱きしめた。
それは彼なりの、感謝の仕草だったのかもしれない。
あるいは、ごく自然な彼女を心配する真心だったのかもしれない。
だがアミュリタは、そんな彼からの深い愛情を受け入れることができなかった。
「ごめんなさい……」
「ううん、急にびっくりしたよね?
ごめんね」
未だ、心の奥には、カムラの影が色濃く残っていたから。
そして、月が満ち、五たびの逢瀬を重ねた夜。
アミュリタはいつもより少し早く着き、小さな布をそっと広げた。
その中には、自ら握った供物――カシャヤ米に香辛料で味つけした蜜煮入りの団子が二つ。
内には、細かく刻んだ蓮の実と、バターで炒めたサグ粉を包み込んだ。
それは、遠い異国でいう「おにぎり」にどこか似ていた。
「ナーヤカ。今日は……これ、作ってきたの。食べてくれたら、嬉しい」
彼は目を見開き、少しだけ唇を震わせた。
「……君が、僕のために?」
「"あなたのために"……作ったのよ」
小さな冗談を添えるように、アミュリタはそっと笑った。
すると、ナーヤカの目に、初めて見る涙が浮かんだ気がした。
ナーヤカはおずおずと団子を手に取った。
焚き火の橙のゆらめきが、彼の頬にあたたかく映る。
ひとつ、そっと口に運んだ瞬間、その表情がゆっくりと綻び始めた。
「……ん。これは……」
まぶたを閉じ、舌で転がすようにして味を確かめたあと、そっと微笑んだ。
「すごく、やさしい味だ。
香辛料がほんのり香って……それでいて、この甘さ……なんて言うんだろう、胸の奥に懐かしさが広がるんだ。
まるで、子どものころに、一度だけ食べたお祭りの菓子みたいだよ」
その言葉に、アミュリタの目がふっと大きくなり、唇が少し震えた。
やがて彼女は、ほっとしたように笑みを咲かせた。
まるで、風にほどける花のように。
「本当に……? そんなふうに言ってもらえるなんて……」
彼女は頬に手を当てて、小さく首を傾げた。
「ふふっ、それじゃあ私の修行も、少しは役に立ったのね。
お台所に忍び込んで、何度もやけどして……もう、指先がまだちょっとヒリヒリしてるのよ?」
そう言って、アミュリタは指をこっそりナーヤカの方に見せた。
彼はそれを見て、今度は少し真剣な表情で、静かに頷いた。
「そんな手で、僕のために……ありがとう。
これはきっと、どんな高僧の供物より、僕の魂に沁みる」
アミュリタの瞳が潤む。
笑みの奥に、言葉にできない想いがゆっくりと芽吹いていた。
「もうひとつ、あとで取っておこうかな。
もったいなくて、一気に食べるのが惜しい」
その様子に、アミュリタは思わずくすっと笑った。
「ふふ、それなら……また、作ってあげる。
次はもっと上手く、ね」
小さな約束のように、彼女はそっと指先でナーヤカの袖をつまんだ。
そのとき、菩提樹の葉が風に揺れ、ふたりの間にやさしい葉音をひとつ、奏でた。
「アミュリタ。今日は……君に伝えたいことがあるんだ」
彼は姿勢を正し、静かに言葉を継いだ。
「アミュリタ・サンターティ。どうか……僕と共に、生きてくれないか?」
世界が、ひとしずく、音を落としたようだった。
アミュリタの胸がふるえた。
彼の声はまっすぐで、嘘も飾りもなかった。
ただ一心に、彼女を求めていた。
だが――
「わたし……」
唇が震えた。
言いたいことが、言葉になる前に。
「私は――、
(カムラを忘れられないの……だから、
今はまだ……)
「ごめんなさ……」
けれど、その言葉が終わる前に。
ナーヤカの身体が跳ねる。
瞳が大きく開かれ、喉がひきつける。
手からおにぎりが滑り落ち、唇が異様なほど鮮やかな赤に染まっていく。
「ゔ、――苦しい、アミュ……ッ!」
「ナ、ナーヤカ!? なにこれ……!? 何が起こって……ッ!!」
土の上に倒れた彼の体は、数度震え、やがて静かに、動かなくなった。
地面に散った香辛料の匂いと、血の鉄錆が入り混じる。
アミュリタはただ呆然と立ち尽くし、震える手を胸に当てたまま、その場を動けなかった。
風が一陣、祠の灯火を吹き消していった。
月が静かに、雲の奥に身を隠した。
――これが、運命の断絶。
アミュリタが"神"の道を歩み始める、第一の犠牲だった。