目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第70話 【追憶】神を創る術(すべ)

変わり果てたナーヤカの前で、アミュリタは声も涙も失くしていた。

大切な人の胸から命が去っていくのを、なす術もなく見送ったその手は、今も米と蜜の香りをまとっていた。


月は冷たく輝き、夜気にさえ怒りの色が滲んでいた。



そのとき、不意に闇が動いた。

果樹園の影より現れたのは、一人の老いた修行者――顔の半分を布で覆い、灰をまぶしたような衣をまとう者。


アミュリタが動けずにいるその前に、すぅっと立ち尽くした。


「この世のことわりを欺いてまで、命は織られぬ」


声は、風と同化するように低かった。




「あなたは……誰……?」


かすれた声が、凍えるように喉から漏れる。


「我は、時間のほつれを編み直す者――その名は意味を持たぬ。

だが今夜、そなたに見せねばならぬものがある」


行者は掌をかざした。

次の瞬間、虚空に水面のような映像が広がる。

その中に現れたのは、アミュリタの魂が知る少女――カムラ。


だが、彼女の姿はかすれ、輪郭が揺らぎ、今にも霧散しそうだった。


「カムラ……! どうして……」


映像に映るカムラの体は薄くなり今にも消えてしまいそうだった。


「彼女はこのままでは“存在しなかった”ものとなる。

その原因は、そなたが今夜見送った者――カムラの父“ナーヤカ”だ」


「……彼が……カムラの……?」


行者は頷いた。


「そう。わしと共に時空を超え、偶然この時代に来ていた彼こそが、未来でカムラの父となるはずの人物。

だが、そなたの手により与えられた食べ物に混入された"毒"によって、死した」


アミュリタの瞳が大きく見開かれる。


「違う……わたしは……そんなつもりじゃ……っ!」


「分かっておる。そなたは罪を犯していない。だが、因果は理由を選ばぬ――歴史は"結果"だけを問うのだ」



行者は指を鳴らした。

映像はゆっくりと変わり、そこに刻まれる未来が映し出された。


それは――


一劫年という気の遠くなる時間を超える、神に抗う"スゴロク台"。

不老不死の薬を飲み、永遠を賭して運命を試す少女。

その身はカムラ。その瞳は、確かにあの少女のものだった。


「この儀式、この局面。この座標だけは、失われてはならぬ。

そなたが彼女に愛を向けるならばこそ、世界はこの条件を満たし続けねばならないのだ」



アミュリタは震える声で尋ねた。


「……どうすれば……彼女を……」


「方法はある」


行者の目が、底冷えするように細められる。


「"七精霊を統べる女神"となるのだ」


「女神……?」


「七つの精霊位を受け、そなたは心を核から解離させ、時の背骨へと力を注ぐ機構となる。

そなたの意志は肉体を離れ、カムラがこのスゴロク台にたどり着く未来を支える"加護"として機能し続ける」


「……その先に、私は……?」


「人として生きることは二度とない。

カムラとも、会うこともない。

そなたの姿は誰にも見えず、声も届かぬ。

だが――彼女を存続させるには、もはやそれしか術はない」


「嘘……」

アミュリタは両手で顔を覆ったまま、微動だにせず立ち尽くし、

その瞳の奥には、ただ真っ白な虚無だけが広がっていた。


「それにのう……。

アミュリタ……。実は、そなたが選ぶ道は、カムラのみならず――そなたの"血"の未来も左右する」


アミュリタがはっと顔を上げる。


「血……?」


すると、行者は静かに頷いた。


「ナーヤカの死により、そなたの父――アサイもまた、重大な役目を果たせなくなる。

本来ならば、彼は、死の運命を免除され、

カムラが地球を未来に導く為に必要な"時の番人"となるはずだった。

しかし、歴史は既にほつれ始めた。ナーヤカの死が運命を引き裂いた結果、アサイの戦死もまた……定めの下にある。

つまりアミュリタ……、そなたが物心ついた頃には既に……アサイは戦死している運命だったのじゃ……」


アミュリタの心に、冷たい風が吹き抜けた。


「じゃあ、今、お父様は……?」


「ああ、カムラと同じく、存在が消えかかっておる」


「そんな……」

アミュリタは両手で顔を覆ったまま、膝から崩れ落ちた。


「だからこそ、そなたには酷なこととは思うが――受け入れてはくれぬか。

そなたの母君は、土着民の反乱に巻き込まれ、

そなたが幼き頃にはすでに命を落とされたと聞いておる。

父上までも失ってしまえば、この先、そなたは一人でどう生きてゆくのだ?

司祭階級バラモンと言う高尚な身分での暮らしに安住して生きてきたそなたが……。

 もちろん、いずれは知人に引き取られることになるやもしれぬが、

そなたの決断ひとつで、大切な父上の命は救われるのだ。

どうじゃ?

命とは、孤立して存在するものではない。

時はあらゆる縁を織り交ぜ、前へと進む。

今ここで、そなたが女神となれば――

アサイの命もまた、調律の座標として保たれるであろう。」



アミュリタは、しばらくのあいだ沈黙した。

だがその沈黙の奥では、すでに決意が育っていた。


「……いいわ。その力、私にください」

カムラが、未来を歩いてくれるなら、私は……人である必要はないわ」


すると……。

七つの光がアミュリタを取り囲み、彼女の輪郭を魔力の軌道へと変えてゆく。

それは神聖というよりも、冷ややかな解体だった。


声も、夢も、肉体も捨てて、ただ「仕組み」として、彼女は女神に……なった。



「よし……これでいい。

アミュリタに見せたカムラの父も、薄く消えゆくカムラの姿も、実は幻覚なのだがな」


行者の唇がわずかに吊り上がった。


「カムラの歩く"盤面"を守るための、最善手だ」


彼の声から、慈しみの色は一切なかった。



ただし、この時点でアミュリタには知る由もなかった――

行者は"カムラのため"でも"アミュリタの為"でもなく、ただ、"スゴロク台にカムラを立たせるため"にのみ、時間を編み直しているのだと。


もはや目的と手段は、かき混ぜられ、判別できぬほどに織り込まれていた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?