霧がかった夜、月は影を失い、祠の灯火すら届かぬ時間。
"女神"となったアミュリタは、既に人ではなかった。
彼女の姿は誰の目にも映らず、声も風さえ掠めぬ。
けれど、内に秘める心だけは、燃え尽きていなかった。
目の前に立つのは、ひと組の夫婦。
無名の村に住む、慎ましく穏やかな人々――
彼らこそ、カムラの両親だった。
庭に吊るされた風鈴が、かすかに鳴る。
それを合図のように、虚空がざわめく。
行者の声が、意識の奥に差し込まれた。
「このふたりが生きれば、歴史が変わる。
カムラは別の道を歩き、スゴロク台には立たない」
「そなたが手を汚さなければ、世界の盤面は崩れる。すべては無に還る」
アミュリタは、心を深い水に沈めるように瞼を閉じた。
――カムラの両親の死。
――カムラの消えゆく姿。
――七精霊の光とともに失った自分の鼓動。
"やめて!!"
「私は……地球の未来を守るために、ここにいる」
"違うわ!私はそんなこと望んでない!!"
アミュリタは指先を動かす。
その動きは祈りのようであり、咎のようでもあった。
彼女の意志が発動する。
透明の炎が舞い、気付かぬうちに夜気へと染み込む。
窓の隙間から忍び込み、夫婦の眠る部屋の灯芯へと火が移された。
数瞬後――家全体が、鈍く燃えはじめる。
だが、誰も悲鳴を上げない。
それは"加護"によって封じられた静謐な炎だった。
"なんで、なんで……こんな酷いことするの……?"
アミュリタはすぐそばでそれを見ていた。
手を伸ばせば、止められる気がした。
けれど、それは「私」がしていること。
それが、唯一の正解なのだと行者は言った。
「そなたは正しくあった。よくぞ果たした」
彼の声が頭の奥に響く。
どこか、微かに笑っていた。
家が崩れ落ち、灰が風に舞ったとき――
そこには小さな影が、ひとつだけ残っていた。
まだ幼き赤子のカムラ。
ただじっと炎の残滓を見つめていた。
涙も、声も無く。
アミュリタの胸が、鋭く痛む。
"女神"の内に秘めた心は、"焼け残った少女"を見て叫んでいた。
"これが正しいって言うの!? ふざけないで!"
だが、返ってくる声はなかった。
風が止み、夜が静まり返る。
"女神"の姿はもうそこになく、ただ、灰の上に浮かぶカムラの命だけを守る護符だけが、かすかに揺れていた。
これが、歴史に刻まれた"真実"。
カムラという少女が「スゴロク台へ向かう」理由の起点。
そして、アミュリタが名を持たぬ存在へと変貌した、静かな喪失の夜だった。