目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第71話 【追憶】燃ゆる未来、灰の約束

霧がかった夜、月は影を失い、祠の灯火すら届かぬ時間。

"女神"となったアミュリタは、既に人ではなかった。

彼女の姿は誰の目にも映らず、声も風さえ掠めぬ。


けれど、内に秘める心だけは、燃え尽きていなかった。




目の前に立つのは、ひと組の夫婦。

無名の村に住む、慎ましく穏やかな人々――

彼らこそ、カムラの両親だった。


庭に吊るされた風鈴が、かすかに鳴る。

それを合図のように、虚空がざわめく。

行者の声が、意識の奥に差し込まれた。


「このふたりが生きれば、歴史が変わる。

カムラは別の道を歩き、スゴロク台には立たない」


「そなたが手を汚さなければ、世界の盤面は崩れる。すべては無に還る」



アミュリタは、心を深い水に沈めるように瞼を閉じた。


――カムラの両親の死。

――カムラの消えゆく姿。

――七精霊の光とともに失った自分の鼓動。


"やめて!!"


「私は……地球の未来を守るために、ここにいる」


"違うわ!私はそんなこと望んでない!!"


アミュリタは指先を動かす。

その動きは祈りのようであり、咎のようでもあった。


彼女の意志が発動する。

透明の炎が舞い、気付かぬうちに夜気へと染み込む。

窓の隙間から忍び込み、夫婦の眠る部屋の灯芯へと火が移された。


数瞬後――家全体が、鈍く燃えはじめる。

だが、誰も悲鳴を上げない。

それは"加護"によって封じられた静謐な炎だった。


"なんで、なんで……こんな酷いことするの……?"


アミュリタはすぐそばでそれを見ていた。

手を伸ばせば、止められる気がした。

けれど、それは「私」がしていること。


それが、唯一の正解なのだと行者は言った。


「そなたは正しくあった。よくぞ果たした」


彼の声が頭の奥に響く。

どこか、微かに笑っていた。



家が崩れ落ち、灰が風に舞ったとき――

そこには小さな影が、ひとつだけ残っていた。


まだ幼き赤子のカムラ。

ただじっと炎の残滓を見つめていた。

涙も、声も無く。


アミュリタの胸が、鋭く痛む。


"女神"の内に秘めた心は、"焼け残った少女"を見て叫んでいた。


"これが正しいって言うの!? ふざけないで!"



だが、返ってくる声はなかった。



風が止み、夜が静まり返る。


"女神"の姿はもうそこになく、ただ、灰の上に浮かぶカムラの命だけを守る護符だけが、かすかに揺れていた。



これが、歴史に刻まれた"真実"。

カムラという少女が「スゴロク台へ向かう」理由の起点。

そして、アミュリタが名を持たぬ存在へと変貌した、静かな喪失の夜だった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?