――山が、鳴いていた。
それは誇張でも、幻想でもない。
本当に、"音"がしていた。
重く、湿った風の向こうから、深い山のどこか、目に見えないその奥底から――
呻くような低い振動と共に、遠い太鼓のような音が、微かに、けれど確かに聞こえてくるのだった。
音は決まって、朝に現れた。
薄い霧が森の合間を流れるように漂い、鳥の鳴き声すら遠慮がちになる頃――古石町という山に抱かれた小さな集落に、不気味な"鳴き声"が染み込んでくるのだ。
「……また、聞こえた。あの声……」
陽翔(はると)は民家の軒先に身を寄せ、肩をすくめるようにして空を見上げる。
今日の空は、灰色にけぶっていた。
雲の切れ間から覗く光はぼんやりと弱く、世界全体がどこか眠たげで沈んでいるように感じられた。
彼の掌はズボンの裾を握りしめ、指先が白くなるほど強く力が入っている。
その仕草は、自分の存在をつなぎ止めるための小さな錨のようだった。
――知らない町。
慣れない風景。
重たく湿った空気。
けれど何よりも、胸の奥にじっとりと張り付くような「違和感」が、この場所にはあった。
両親の離婚から数年。
父側に引き取られた陽翔は、転勤族の父と共に、あちこちの町を転々としてきた。
そんな陽翔にとって、「新しい町」はもう慣れたはずだった。
知らない学校、知らない友だち、知らない地図。
慣れることが日常で、誰も信じすぎてはいけないと、少しだけ学んでいた。
……でも、この町は、それともまた違った。
この町には、人の目に映る以上の"何か"がある。
そんな意味深な気配を、陽翔はまだ幼いながらに感じていた。
町の大人たちは皆、陽翔に優しかった。
笑って挨拶してくれた。
けれどその笑顔は、どこか変わっていて、表情が"まるで遠い異国の人と出会っている"ようにも思えた。
「おはようございます」という言葉すら、違う速度、違うイントネーションで繰り返される外国語のようで――そこに"日本人独特の雰囲気"はなかった。
そして何より忘れられないのは、あの朝の光景。
通学路の角を曲がったとき、すれ違った近所のおじさん――名前はまだ覚えていない――が、手を振ってくれたその瞬間。
その人の手の甲に、ふと光った模様。
銀色の、うろこのような――まるで、魚か何かの皮膚が浮かび上がるかのような、不自然な輝き。
一瞬のことだった。
気のせいだと思いたかった。
でも、あれは絶対に、見た。
「うろこ……みたいだった、あの模様……」
呟いた声は、誰にも届かない小さなつぶやきだった。
けれど自分自身の中に、鋭く刺さるように響いた。
(ここ……何か、おかしい)
胸の奥が、ぎゅっと収縮する。
まるで体のどこかが、静かに警報を鳴らしているような――それは、陽翔の中に根付いた"生き残るための感覚"だった。
"違和感"ではない。これは、"危険"だ。
鳥の鳴き声が途切れる。
風が止まり、町の景色が、まるで凍りついたように感じられる。
陽翔は息を呑んだ。
山が、また鳴いた。
それは、まるで"呼ばれている"ような音だった。