〔陽翔の回想〕
実はボク竜崎陽翔は、この古石町にもっと幼い頃にも一度、父の長期出張に着いて来たことがあった。
そして……、あれは確か父の休みの日のことだったと思う。
ボクは父とはぐれてしまい、この町の奥にある深い森に迷い込んだ。
森の空気は湿っていて、ボクのTシャツにじっとりまとわりつく。
鳥の声も、虫の羽音も、なぜか遠くに感じた。
(あれ?……さっき通ったはずの道、どこ?)
リュックを前に抱えるようにして、背中の汗をぬぐった。
当てもなく歩き回っているうちに、気づけば景色はまるで違っていた。
枝葉が生い茂り、陽の光もほとんど届かない。
森の奥、ひとりきり。
不安が背筋を這い上がってくる。
心臓の鼓動ばかりが、やけに大きく響いていた。
「ねえ……だ、誰か……いないの……!?」
声を張り上げると、返ってきたのはボク自身の声の反響だけ。
ひとつ、大きく息を吸い込んで、歩き出そうとした、そのとき――
足元がぬかるみに取られて、思わず転んだ。
「わっ、ぐっ……!」
膝から地面に崩れ落ちて、泥が顔や腕にべったりつく。
膝に走ったジンとした痛みに顔をしかめて見下ろすと、薄皮が剥けて、血がにじんでいた。
(……最悪だ)
目尻に溜まりかけた涙をぬぐおうとしたとき、背後の茂みがふいにカサリと揺れた。
ボクはそれにびくりと体を強張らせる。
(まさか、肉食……?)
ボクは息を殺してそっと振り返る。
すると、そこにいたのは、ボクの想像を裏切るような姿だった。
体長は犬くらいだろうか?
ふさふさとした淡い青みがかった羽毛に覆われていて、くるくると動く瞳がまっすぐボクを見つめていた。
(……恐竜?でも、小さい。子ども……?)
ボクが恐る恐る立ち上がろうとした瞬間、
その小さな恐竜は一歩だけ前に出てきた。
「え……あ、こんにちは」
他は思わず声をかける。
すると、恐竜は片足を上げて、小さく首を傾げた。
その仕草はまるで犬か猫みたいで、ボクは少しだけ緊張がほぐれた。
「まさか、ボクに道案内とか……してくれたりは……しないよね?
まさかね……ごめん」
ボクがそう言うと、恐竜はくるりと背を向けて、しっぽをふわりと揺らしながら森の奥へ進んでいった。
「あ……ちょ、ちょっと待ってよ!」
ボクは慌てて立ち上がり、恐竜のあとを追い始めた。
そのまま森を進んでいくと、ボク達は小川にたどり着いた。
水は冷たそうで透明だったけど、胸元くらいの深さがありそうで、渡るのは危険だった。
「これ、どうすれば……」
ボクが唇を噛んで先の一歩を踏み出せないでいると、その恐竜――ボクは勝手に"もふ助"と心の中で呼ぶことにした――が周囲をきょろきょろと見回し、川の上流へと走っていった。
ボクがその後を追いかけると、そこには川をまたぐように倒れた太い倒木があって、もふ助がそのそばで短く鳴いた。
(え、
すると……。
「ピィー!」
もふ助はもう一度短く鳴いた。
倒木の足場はかなり滑りやすくて、バランスを崩しそうになりながらも、もふ助の動きを真似てなんとか川を渡りきった。
着地の瞬間、思わず叫んだ。
「よっしゃあ……! やった!」
もふ助が「ピッー!!」と鳴いて、しっぽを一振りする。
その仕草が"頑張ったね"って言ってくれてるようで、ボクは少し照れながら笑った。
ボク達がそのまましばらく進んでいくと、赤くて小さな木の実がたくさんなっている場所に出た。
もふ助が木の実を一粒くわえて食べたあと、まるで{うまいぞ}とでも言いたげにボクの方に差し出してくる。
「ん? これ、ボクが食べても大丈夫なの?」
ボクはもふ助に促されるままに、
おそるおそる一粒つまんで口に入れる。
「……すっぱ! けど、なんか元気出る味だな」
ふたりで腰を下ろして、ぽつぽつと実を食べる時間がしばらく続いた。
昼間の暑さや、緊張と不安で疲れ切っていた身体に、甘酸っぱさがじんわりと染みていく。
「……ありがとう、もふ助」
そうつぶやいたら、もふ助はコテンとボクの膝に頭を預けてきた。
(こんなに近くで、恐竜と……)
"恐竜=怖い"っていうイメージが、少しずつ溶けていくのを感じた。
この小さな冒険が、ボクの世界の見え方を変える一歩になるなんて、このときはまだ、思ってもいなかった。