「すみません。花壇で声をかけられた時のように、やり過ごせばよかったのですが……」
「花の女神がどうとか言っていたな。俺が言うのもなんだが、信仰心があるとは思わなかったぞ」
本来のオリアーヌなら、そう思われるのも仕方がない。オリアーヌの記憶を辿らずとも、女子生徒たちの会話から、信仰心のなさを窺える。
だからシルヴィ嬢も驚いたのだ。同じ転生者だとは推測できても、シスターだとは思わないだろう。私もなぜ、悪役令嬢にと思ったくらいだ。常に神様にお仕えしてきたというのに、あんまりではないだろうか。
「ミュンヒ先生。ご自身がシルヴィ嬢におっしゃったことを、お忘れですか? 花の女神様は、常に私たちを見ていらっしゃるのですよ」
「だからなんだ?」
「婚約解消が上手くいくかどうか。その祈願で信仰し始めたのです。修道院へ行くのならば、今から馴染んでおくのもいいと思いまして」
修道院へ行くことには納得してもらえたのだから、いきなり信仰心に芽生えるより、こちらの言い訳の方が最もだろう。
常日頃から懺悔室で、信者の悩みを聞いていた成果が、まさかここで発揮されるとは。死しても尚、人生何が起こるか分からないものである。
「まだ完全に修道院に行くと、決まったわけではないだろう」
「ですが……」
「俺の気持ちを無視する気か?」
「そ、そのようなつもりはありません! ただ……」
「今回の件は、随分と手助けしたと思っているのだがな。俺に対する非礼で、アペール嬢は墓穴を掘った形になった」
ミュンヒ先生は簡単に言うが、その非礼が大問題なのだ。ここが学園だから、大目に見られているようなもので、本来ならばシルヴィ嬢の義父である、アペール男爵が謝罪をしにくる場面である。
けれど、そんな噂も聞かなければ、シルヴィ嬢の退学話も聞かない。
まぁ、乙女ゲームの舞台からヒロインを退場させるなんて、さすがにできないものね。
「それで、どう処理なさるおつもりですか?」
私は窓に映るミュンヒ先生を見すえた。表情が優れないことから、良い返事ではないのだろう。
だから向き合ってくれないのかしら。
お腹に触れるミュンヒ先生の手に、自分の手を重ねた。
「学園長からは、『新入生であるため、教師として寛大な処置を願う』と言われている」
つまり、侯爵の立場で処理をするな、と釘を刺されたらしい。貴族の問題を学園に持ち込んでほしくない、という事なかれ主義の学園長らしかった。
そうでなかったら、エミリアン王子とシルヴィ嬢の交際にも、口を出したはずだからである。私たちの関係にも、だ。
「だから退学処分にしたいところを、謹慎処分にしようと思っている」
「それはどれくらいの期間ですか?」
「この学園にいて、またオリアーヌ嬢にちょっかいをかけると困るからな。アペール男爵に引き取ってもらうのはどうだろう。いや、反省している証拠とし、アペール嬢が前にいた孤児院へ奉仕してもらう方がいいか」
「そうですね。孤児院へ行くのは、本人としては屈辱かもしれませんが、ノブレス・オブリージュの意味としては、妥当ではないでしょうか」
本来のシルヴィ・アペールであるのならば、屈辱にはならない。むしろ、ご褒美に近い。自分が去った後も、子どもたちが元気でいるのか、気にかけるほど優しい少女だからだ。
今のシルヴィ嬢は、上昇志向の持ち主だから……罰になり得るだろう。
「だが、一つだけ問題がある」
「なんでしょうか?」
「アペール嬢がいない間の王子だ」
「あっ」
「なんだかんだで、アペール嬢がストッパーになっていたからな。十分に気をつけてくれ」
「はい」
そう言ったものの、シルヴィ嬢以上にエミリアン王子への対応は難しかった。婚約者という立場は、未だに覆せない。
昨日の件で、クラスメイトの女子生徒たちは、私の心がミュンヒ先生にあることを好意的に思ってくれているが、他の者たちは違うからだ。
確か乙女ゲームでは、エミリアン王子の傍に側近がいたような気がする。護衛の意味も込めて近衛騎士団長の息子と、信頼関係を築けるようにと宰相の息子の二人が。
別のクラスにいる関係で、遭遇しなかっただけなのかもしれない。私は休み時間になると、すぐに教室の外に出ていたからだ。
護衛だったらエミリアン王子の傍にいてもいいのに、と思うところだが、そこは乙女ゲーム。常に監視役が傍にいては、シルヴィ嬢がエミリアン王子と親密にできない、というご都合主義が働いていた。
つまり、シルヴィ嬢がしばらくいなくなると、必然的に二人にも遭遇する確率が上がってしまう、ということかしら。それはそれで楽しみなようで、ちょっと怖いわね。彼らもまた、攻略対象者だから。
う~ん、と唸っていると、窓の外に人影が見えた。しかし次の瞬間、大きな手が目の前を過ぎり、強引に顔を後ろに向かされた。
「あっ」
そこにあるのは当然、ミュンヒ先生の顔。深緑色の前髪の奥に見える、熱を帯びた赤い瞳が迫ってくる。それが何を示すのか分からない私ではない。
受け入れようと目を閉じた途端、先ほど見えた人影が脳裏を掠め……気がついたら、ミュンヒ先生の手を振り解いていた。
「っ!」
羞恥もあったけれど、それだけが理由ではない。私は再び窓に視線を移した後、ミュンヒ先生を見つめた。
初めてキスされたのはエミリアン王子の前。次に後ろから抱きしめられた時、私の前にいたのはシルヴィ嬢だ。そして今は……。
いつもミュンヒ先生が迫ってくるのは、誰かの目がある時だ。「俺の女になれ」と言ってきたのに、二人きりの時は私に手なんて出してこない。
咄嗟にミュンヒ先生の体を押した。
「お、オリアーヌ嬢……」
ほら、私が窓から遠ざかれば、手を伸ばすどころか追いかけても来ない。誰も見ていないからだ。
知らなければ、あのままミュンヒ先生の腕の中で幸せに浸れていたのかもしれない。知らなければ、こんなにも苦しい思いをしなくてすんだのに……。
「っ!」
違う! 私が進みたいのは、進むべき道は修道院。花の女神様に仕えるシスターだ。それなのに、どうしてこんなにも傷ついているの?
私はシスターよ。悪役令嬢なのよ。攻略対象者に恋だなんて……あり得ない!
あぁ! 神様、助けてください。私は……!
「ごめんなさい」
「オリアーヌ!」
急いで鞄だけ手に持って、私は研究室を出た。テーブルの上には、未だに中身の入ったランチボックスだけが、ポツンと残されていた。