クシュン!
心地よい暖かさをもたらしてくれた春が過ぎ去ろうとしている、初夏の頃。長袖では暑く、半袖ではまだ肌寒くて、なかなか衣替えができずにいた。
くしゃみが出たのも、そのせいだろう。季節の変わり目は風邪を引きやすいものだから。
「そう、思いたいけれど……」
皆の視線が痛い。そんなにくしゃみが大きかったかしら。
いや、授業の時間なのにもかかわらず、制服を着た私が図書館にいるせいだろう。明らかにサボっているのが、バレバレだった。
ミュンヒ先生と和解してから、私は寮に引き籠もることをやめたのだ。けれど授業には、未だ復帰していない。シルヴィ嬢が学園に戻っていないからだ。
あの日、「俺も撤回しようと思っていた」と後悔の念を口にしていたミュンヒ先生は、その言葉通り、学園長に進言。シルヴィ嬢の処罰を減軽する旨を伝えたのだ。しかしすぐに実行に移せる話ではなかったため、未だに戻っていない、というわけである。
ミュンヒ先生も、こればかりは権力を行使できないため、気長に待つしかなかった。
けれど悪いことばかりではない。まず、アシル様にその旨を伝えたことで、手紙が来なくなったこと。そして、私が引き籠らなくても済むようになったことだ。
すでに仮病はバレていたため、私が学園の中を歩いていても、誰も不思議に思わない。むしろ……。
「まぁ、見て、オリアーヌ様よ」
「本当だわ。無事にミュンヒ先生と仲直りされたのね」
なぜか仲違いしていたことを、周りが知っていた事実に驚かされた。
まぁ、あれだけ贈り物をされておきながら、手紙だけで済ませていたんだもの。何かあると勘ぐってもおかしくはないわよね。それも女子生徒たちが、代わる代わる私とミュンヒ先生の間を行き来していたのだから、無理もないわ。
それなのにもかかわらず、未だに私は授業に出ていない。他に問題があるとしても、堂々とサボる姿は、見ていて気分のよいものではないだろう。だけどこれ以上、授業が遅れるのも嫌だった。
歴史の授業はミュンヒ先生から教わることはできるけれど、それ以外はね。
女子生徒たちに頼むのも気が引ける。それ以外でも、すでにお世話になりっぱなしだというのに、これ以上は心苦しくてできなかった。
だから今、図書館に来ている、というわけである。けしてミュンヒ先生を蔑ろにしているわけではない。
「とはいえ、ほぼ二週間。どのくらい進んでいるのかしら」
「何がだ?」
「授業よ。このまま追いつけなかったら、留年してしまうかもしれないわ」
ん? 私は今、誰と会話をした?
恐る恐る振り返ると、書架を背にしたミュンヒ先生の姿があった。なぜか顎に手を当てて、思案している。
一瞬、驚いたものの、どうしてそこにいるのかが気になった。いやそれよりも、気に障ることでも言ってしまったのかと思った。折角、和解したのに、今度は私がミュンヒ先生を怒らせるようなことをしたのではないだろうか。そっちの方が、気が気ではなかった。
「留年は……さすがに困るな」
「っ!」
そうよね。ミュンヒ先生の立場、というものもあるし……。
「いや、退学という手もあるか」
「そ、それはあんまりです!」
思わずここが図書館だということを忘れて、大声を出してしまった。
いくら私たちの関係が、退学に値するものだからって、ミュンヒ先生自ら引導を渡すなんて……酷いではありませんか! 前世でも、退学処分を受けたことがないのに。
そう悲観していると、前から伸びてきた手に、口を塞がれた。
「大声を出すな。ここは図書館だぞ」
「っ!」
「それに、退学と言ったのは、留年して結婚が遅くなるくらいなら、その方がいいと思っただけでな……」
「んんっ!」
早とちりした私も私だけど、ミュンヒ先生まで……一体、何を言っているの? とりあえず、もう大声を出さないので、この手を退けてください、と手を叩いた。
けれど、言いたいことは言わせていただきます。
「その前に私の名誉が傷つくとは、お思いにならないのですか? 学園を退学した者の下に、誰が付きたいと思うのです。子どもたちにものを教えることだって、できなくなってしまいます」
折角、孤児院を建ててくれると言ったのに、それさえも台無しにする気ですか!
「すまない。そういうつもりで言ったわけではないのだ。ただ、オリアーヌが学生のままでは、何かと不便でな」
「何がですか?」
「こうして、オリアーヌを探し回らなければならない」
「そういえば、どうしてここにいらっしゃるのですか? ミュンヒ先生だって授業が……まさか、私のせいですか?」
「違う。ちゃんと授業がない時間を選んでいる」
よかった。悪役令嬢とはいえ、ミュンヒ先生にそんなことをさせる悪女にはなりたくはないもの。
そう、胸を撫で下ろしていると、ミュンヒ先生が突然、目の前にある物を差し出した。
長方形の白い紙と、その先端には緑色のリボンが結ばれている。さらによく見ると、白い紙には青い花が付いていた。
「これは……栞ですか?」
まさかのキーアイテムの出現に、胸が高鳴った。
「しかもこの花は……」
「オリアーヌが育てていた、ネモフィラを拝借させてもらった。無断で悪いとは思ったのだが、これからのことを考えるとな。ネモフィラが相応しいと思ったのだ」
ミュンヒ先生の言う通り、これから婚約解消に動こうとしている私にとって、ネモフィラはとても相応しい花だった。なぜならネモフィラには、「成功」という花言葉がある。それと同時に、「あなたを許す」という花言葉も。
「律儀なのですね」
「そうか?」
「はい。だから私も、ミュンヒ先生にネモフィラの押し花が付いた栞をプレゼントしたいのですが」
「材料なら研究室にあるが、来るか?」
「その前に、花壇に寄りたいです」
寮に籠っていたから、あの花壇の手入れもサボっていたのだ。おそらく庭師さんが見てくれているとは思うけれど、それでも確認しておきたかった。
ネモフィラの他に、カモミールもそろそろ頃合いだろう。お詫びも兼ねて、カモミールティーをお裾分けしに行かなくては。
「オリアーヌ。それは後にしてくれないか」
突然、聞こえてきた、落ち着いていながらも怒気の孕んだ声に、私は顔を横に向けた。折角、ミュンヒ先生からキーアイテムである栞をもらえて、舞い上がっていたところだったのに、思わぬ人物の出現に気持ちが急降下した。
けれど相手にとって、そんなことは関係ない。金髪の奥にある、私と同じ紫色の瞳からは怒りが見えていた。死に戻ってからは、初の対面となる。ミュンヒ先生と同じ攻略対象者であり、私の……。
「お兄様……」