視線の先にある学園長室の扉は、学園の歴史が詰まったかのように、所々痛んでいた。思わず前世でお世話になった、牧師様の部屋の扉と重なる。
あの扉は変えたくても変えられなかったが、おそらくこちらは意味合いが違うだろう。あえて重厚感というか、趣深さを意識して残されているとしか思えなかった。
だから、余計に気分が重くなる。牧師様の部屋に呼び出される時は、決まって良くないお話だったからだ。
私は最後尾にいることをいいことに、ミュンヒ先生の袖を掴む。すると、私の耳に顔を寄せてくるものだから、一瞬ドキッとなった。
「大丈夫だ。さっきは不覚を取ったが、近づけさせない」
すぐに前方を歩くジスランのことで、私が怯えているのだと悟った。図書館からここに来る道中も、ジスランは何かと私にちょっかいをかけようと、何度も様子を窺っていたから無理もない。
『オリアーヌ。周りの視線が気にならないかい? ここはやはりミュンヒ侯爵よりも、私が隣にいた方が……』
『いいえ、お兄様。この組み合わせが珍しくて、皆こちらを見ているだけですから、問題ありません』
やんわり断っても、再び視線を送ってくるため、今度はミュンヒ先生が耐えられなくなった。
『学園長室に行きたいと言っていたのは誰だったか、オリアーヌ嬢は覚えているか? これでは着くのがいつになるのか分からないな』
『そうですね。あと前を向いて歩かないと、転んでしまいますわよ』
『オリアーヌが私の心配をしてくれるとは……!』
この後、ミュンヒ先生から「余計なことは言うな」と目で訴えられた。いや、怒られたの間違いかな。だからもう微笑むだけにしたのだ。
代わりにこの場の空気を換えてくれたのは、扉の目の前にいるスラッカ先生である。ドアノッカーに手を伸ばし、カチカチと金属音を鳴らして、私たちの訪問を部屋の主へと伝えた。その重々しい音が、余計に不安を募らせる。
私はその原因の主である、ジスランの後ろ姿を凝視した。金色の髪は、物語に出てくる王子様を思わせるけれど、今の私には悪魔の使いのように見えるのだ。
一応、退学させるために来たわけではないらしいが、あれはその場しのぎで言った可能性がある。乙女ゲームとは違い、私は被害者であって、加害者ではないからだ。ジスランが証明するべき罪を、私は犯していない。
それなのに学園に来たということは、シルヴィ嬢からの手紙が原因だろうか。私とミュンヒ先生の関係を、初めから知っていたから、そこを重点的に盛られたのかもしれない。
ジスランがシスコンなのは、シルヴィ嬢だって知っている。私を排除したいのであれば、ミュンヒ先生を引き離したい、と考えるはずだ。だから別の意味でジスランは、シルヴィ嬢にうまく攻略されてしまっていたらしい。
「学園長。マイヤ・スラッカです。ご報告したいことがあり、参りました」
その先ぶれをしてから数秒後、扉の向こうから学園長の「入れ」という声が聞こえた。
茶色い扉を開けるスラッカ先生。そのまま順番に入ると思っていたら、突然ジスランが振り返った。
学園長室に入るからと、ミュンヒ先生の袖から手を離しておいてよかった。これ以上、ジスランを刺激させるわけにはいかないもの。
けれど予想外の動きはこれだけではなかった。
「さぁ、オリアーヌ。入ろうか」
ジスランが私に手を差し出したのだ。どうやらここでもエスコートをしたいらしい。
ここに来る道中も、散々断ったというのに、もう忘れてしまったというの?
誰がその手を取るものか、と思っていると、隣からすっと手が伸びてきた。
「そんなにエスコートをしたいのなら、してもらおうか」
ミュンヒ先生がジスランの手を取ったのだ。「えっ」と驚いている間に、ジスランはミュンヒ先生の手を払い除ける。
「誰がお前なんかを!」
「おや、もう公爵気取りか?」
「っ! 違います。突然のことで、思わず素が出てしまいました。申し訳ない」
「ふむ。では、これを一つ貸しにしておこうか、カスタニエ卿」
シルヴィ嬢のように、ここでジスランの立場も危うくさせるのでは、と一瞬ヒヤッとなった。
まさかこのために、ジスランの手を取ったの? 死に戻ってから攻略対象者とは極力近づかないように、とはしていたけれど、どうやら私は、一番敵に回してはいけない相手を味方にしていたようだった。
私の修道院行きも、見事に妨害されたし……。ううん。後悔していないから、別にいいんだけど。
ミュンヒ先生はその貸しを、どうする気なのだろうか。色々と不安に思いながらも、私は学園長室に入った。勿論、誰の手も取らずに。
***
「全く次から次へと問題を起こしてくれますな、ミュンヒ先生」
一部始終をスラッカ先生から聞いた学園長は、ミュンヒ先生を見ながらため息を吐いた。
「まるで俺ばかりが悪いような言い方を、しないでもらいたいですね」
「事実、ある男爵令嬢が奉仕という名の罰で、学園の外に出ているのは、ミュンヒ先生が原因では?」
「俺も大人気なかったと思い、早々に戻るようにと手配しました」
「王子の一件も、元を辿ればミュンヒ先生の監督不足だったともいえる。ここに籍を置いている最大の理由を蔑ろにされては、私も色々と考えざるを得ませんな」
「あれは……学園長も野放しにしていたではありませんか」
隣で弁明するミュンヒ先生の姿に、さすがだと内心感心せざるを得なかった。突然、ミュンヒ先生のような人物が現れるわけではないのだから、年の功ともいえる。
だけど経験値の差だけなら、私も負けてはいない。内心、そう意気込みながらも、声では感傷的に装った。
「エミリアン王子の件に関しては、私も同罪です」
「いや、オリアーヌ嬢は関係ないだろう」
「そうだ。王子がオリアーヌの魅力に気がつかず、他にうつつを抜かしていたのが悪いのだから」
私はうるさい、黙れ、とばかりにミュンヒ先生とジスランを見つめた。けして睨んではいない。そう、元シスターたるもの、圧をかけても、親の敵とばかりに睨んではいけないのだ。
「婚約者として私は、エミリアン王子の行動に一切、苦言を申しませんでした。そのため、シルヴィ嬢を増長させ、あのようなことが起こったのです」
「だからミュンヒ先生だけではない、と言いたい気持ちは分かる」
「いいえ。なぜ、ミュンヒ先生が庇ってくださったのか。学園長はお分かりになって、そうおっしゃっているのでしたら、私はここで首を縦に振りましょう。いかがですか?」
ただ単に、恋人関係になったから、という答えではないことを示唆した。いくら学園長でも、その裏の真意が、まさか婚約解消だとは思わないだろう。顎に手を当ててまで、その答えを探っていた。
「オリアーヌ。学園長の代わりに私が答えてもいいだろうか」
すると思わぬところから、手をあげる者が現れた。
「えぇ。構いませんよ、お兄様」
「オリアーヌが、王子との婚約を望んでいたのは知っている」
それは以前の、悪役令嬢のオリアーヌだ。
「この学園に入学して、王子に嫌気がさしたこともな」
「お父様に出した手紙を、お兄様もご覧になったのですか?」
「手紙を出すように言ったのに、なかなか寄こしてくれないから、父上に頼んで無理やりな」
そこまでして!? 私がこの学園で過ごしたのは、ここ数カ月。オリアーヌは一年なのよ?
乙女ゲームの情報を抜きにしても、確かにこのジスランには手紙を出したくない。同じ立場になって、オリアーヌの気持ちが分かるなんてね。
「だから迎えに来たんだ。一緒に帰ろう、オリアーヌ」
何を言っているんだ、コイツ。