「違うのか?」
すぐに返事をしなかった私を不審に思ったのか、ミュンヒ先生が心配そうに尋ねてきた。
確かにあの時、私はシルヴィ嬢を刺激する形で『花乙女』、と口にした。互いに転生者であることを認識していたけれど、『乙女ゲームのヒロイン』という言葉を使いたくなかったからだ。シルヴィ嬢を非難したくて、この世界の人たちにも分かる言葉を使用したのだ。
シルヴィ嬢がヒロインだから? 花の女神様に選ばれる存在だから?
その気持ちがなかったと言ったら嘘になる。だって、嫉妬心で言ったことには変わらないから。
不幸になることを決定づけられた、悪役令嬢の私が必死に生き残る道を探っているのに、シルヴィ嬢は執拗に攻撃してくる、この現状。いくら私でも、怒りを感じていた。だから少しくらい痛い目に遭わせても、バチは当たらないと思った。
本当に? あの時、ミュンヒ先生は言っていたじゃない?
『花の女神は常に俺たちの行いを見ている』
今の私を花の女神様が見たら、どう思うだろう。間違いなく、死に戻らせたことを後悔するに決まっている。さらに失望なんてされたら……想像しただけで、胸がえぐられるような気分になった。
だって、そんな者からの信仰など、気持ち悪いに決まっている。いくら寛大な花の女神様であっても、だ。とはいえ、日々の感謝と労いを、お祈りできなくなるのは困る。もの凄く困るわ!
そうよ。花の女神様を前にすれば、シルヴィ嬢なんて、取るに足らない人物。なんでそのことを忘れていたのかしら。あぁ、そうか。これが……『悪意』
危うく私も、『悪意』に染まってしまうところだったわ。
「ミュンヒ先生、お忘れですか? 私は以前、修道院に行きたいと言いましたよね」
「……まだそんな戯言を。考え直したのではなかったのか?」
「勿論、考え直しましたよ。私のために礼拝堂を建ててくださるというのに、そんな魅力的なお話を蹴るなんていたしませんわ。自分で言うのも恥ずかしいのですが、そのくらい花の女神様への信仰が強いのです」
「……つまり、何が言いたいのだ」
「あら、分かりませんか? 花の女神様が選んだ者を、厄災の証に仕立てることは、到底できないと言っているのです!」
私はここぞとばかりに机を叩いた。先ほどフィデルにできなかった悔しさと怒りが形となり、教室の隅々まで届いた。
「しかしだな。このチャンスを――……」
「活かさないとは言っていません」
「では、どうするというのだ?」
「シルヴィ嬢のお望み通り、花乙女として仕立てて差し上げるのです」
「……わざわざ望み通りにしてやる相手だとは、到底思えないんだがな」
どうやらミュンヒ先生は、シルヴィ嬢のために動きたくないらしい。苦虫を噛み潰したような顔で言い放った。
「不満なのは分かります。私だって、シルヴィ嬢の思い通りにさせるのは嫌ですから」
「だったら――……」
「考えても見てください。シルヴィ嬢が私に攻撃的なのは、なぜでしょうか」
「オリアーヌが邪魔だから、ではないのか?」
「ではなぜ、私が邪魔なのでしょうか」
「エミリアンが好きだから?」
正直、シルヴィ嬢がエミリアン王子のことを好いているのかどうかは疑わしい。けれど私は、フィデルの言葉に頷いた。
「おそらく、その辺りだと私も思っています。けれどエミリアン王子の態度は優柔不断で、シルヴィ嬢は不安に陥ったのでしょう。さらにそこへ、私とミュンヒ先生の噂が持ち上がったのです。いてもたってもいられなくなった、とは思いませんか?」
本当は私に、攻略対象者を取られてご立腹だったのだが、そんな話をするわけにはいかない。だからミュンヒ先生とフィデルが、納得できそうな話をでっち上げることにしたのだ。
花の女神様、お許しください。これは乙女ゲームの筋書き通りにするための、必要な嘘なのです。
「つまり、シルヴィ嬢を花乙女に仕立て上げ、王子の選択を一択にさせる、という算段なのか?」
「はい。そうすれば、お父様も納得してくれるのではないでしょうか」
花乙女という言葉で、シルヴィ嬢の噂が学園内に飛び交うほどだ。思った以上に重要視されているのだろう。
「……ミュンヒ先生から、カスタニエ嬢が婚約解消したいって聞いていたけど、本当だったんだな。でもそんなことで簡単にできることなのか? 花乙女っていうのが、それほどまでの地位なのか、イマイチよく分からないんだけど」
そうだった。フィデルをそういう分野に弱いのだ。だから花乙女について質問をしていたのに、私ったら。
そっと腰を下ろすと同時に、ミュンヒ先生に目で合図を送った。
「これまでレムリー公国に現れた花乙女は、片手で数えるほどしかいない。さっきも言ったが、『悪意』が起こる前兆として現れるからだ」
「その『悪意』は、具体的にどういうのが起こるんですか? さっき、スタンピードって言っていましたけど」
「それは『悪意』の一つだ。クーデターもその一種として考えられている」
「ひぇ~。花乙女ってそんなのも鎮められるんですか?」
「悪しき心を浄化するらしいからな。どんな『悪意』も鎮められる、らしい」
乙女ゲームでも、花乙女の出現は数千年振りだと表現されていた。ミュンヒ先生が言葉を濁すのも理解できる。今ここに住んでいる者たちは、誰も花乙女を見たことがないのだ。
けれど私は、ゲーム機の画面で、その花乙女が『悪意』を浄化している姿を見ている。
花の女神様の象徴である、ラナンキュラスのピンクの花びらを光に纏わせながら、向かってくる『悪意』を浄化している、シルヴィ・アペールの姿を。その神々しさはまさに、花の女神様が選んだ人物に相応しかった。
それを知らないフィデルは、ミュンヒ先生の説明を聞いても尚、半信半疑な反応をしていた。しかし孤児院出身の男爵令嬢である、シルヴィ・アペールが公妃になれたのは、この世界での花乙女の地位が、高いところに位置していたからだ。
「ふ〜ん。それなら、ミュンヒ先生も浄化されそうですね」
「ほぉ、なかなかいい度胸をしているな、フィデル」
「……お二人とも、花の女神様のお力がいかに凄いか、という重要な話をしているのに、おふざけが過ぎますよ」
「え、カスタニエ嬢!? いきなりどうしたんだよ」
「どうした、ですって!? さきほど信仰心が強いと言ったのを、もう忘れたの? これから私の護衛になるのだから、そのような発言は慎んでもらわないと困るのよ!」
慌てるフィデルを尻目に、関係ないとばかりに涼しい顔をしているミュンヒ先生。私はそちらに向かってキッと睨みつけた。「貴方も、ですからね」と釘を刺すことも忘れずに。