ネッドの話には驚いたが、サムは思った。
殺人を犯したという重みに堪えられず、それを正当化するためにさらなる暴力行為や虐殺に走る例は実際にある。ひとりを殺したことに向き合うのは堪えられなくても、何人もを殺すことによって個々が軽視され、麻痺していくというのもありえることだ。
写真を見る限り、エイブラムスは以前は地味でおとなしそうな、冴えない若者だった。それが痩せて顔つきも変わり、金髪に染めて別人のようになっている。最初の犯行を有名な殺人鬼の仕業に見せかけようとしたという仮説も、カリスマ的に取り沙汰されるソガードになりきろうと殺人を繰り返しているというのも、考えられないことではない。
「仮におまえの云うとおりだとして、その場合、共犯者は?」
ネッド自身の話ももっと聞いてやりたかったが、今はそのときではないとサムは事件に意識を集中した。
「それなんですよね……。ヴァーノンはエイブラムスの交友関係を洗うって云ってましたけど、ここに連絡がないってことは、共犯者らしい人物はまだ発見できてないってことっすね」
「エイブラムスは、図書館の職員にはっきりと〝
「ですよね。じゃ、他で知り合ったとして……やっぱりそのきっかけって、ソガードの事件の話とかなんですかね。ひょっとして、〝魅惑の殺人鬼〟のファンクラブでもあるとか」
「まさか。……ありそうで怖いな」
「そういえば、四件めから凶器が変わったのって、あれ共犯者が所持していたナイフだったんじゃないすかね。再現度が上がったのも、もしかすると三件めまではエイブラムスの犯行で、四件めからは共犯者が刺したんじゃ?」
サムは頷いた。
「それは充分に考えられるな。――四件めの資料は……」
サムは二台のテーブルを埋め尽くすように広げた捜査資料のなかから、『
『
「――ネッド。エイブラムスが図書館で新聞記事を読み漁ったのは何日だった?」
「ええっと……」
ネッドは手帖をぱらぱらと捲った。「五月七日から十一日までの五日間です」
「やっぱり。三件めと四件めの犯行のあいだだ」
「っすね。再現度が上がったわけだ」
「共犯者のほうがソガードの犯行に詳しくて、エイブラムスは負けじと
「こうも考えられますよ。――エイブラムスは共犯者に、もっと完璧に再現するため、図書館で記事を読んで参考にしようと提案された」
サムはふむ、と首を縦に振った。
「ほんとにファンクラブがあるんじゃないだろうな」
「ファンクラブはなくっても、偶々バーで飲んでて噂話に盛りあがるってんなら、ふつうにありますよね」
噂話。またそれが引っかかってくるのかとサムは頭を掻いた。〝魅惑の殺人鬼〟は今も生きていて、黒いマスタングで西へ――。
ソガードが警察に追いつめられてオハイオ川に落ちたあのとき、死なずに逃げ遂せていた可能性は否定しない。しかし、黒いマスタングについてはまったく出所がわからない、ただの噂話に過ぎない。ソガードが犯行に使用したマスタングは黒ではなかったのだから。
なのに、気がつくとこの根拠のない噂が微かな羽音をたてて頭の周りを飛んでいる。サムはそれを振りほどきたい気分で、テーブルの端のポールモールに手を伸ばした。
「エイブラムスは、酒場かどこかで何者かと意気投合して、殺人の共犯に引き入れた? ……ふつうに考えてありえない。まず、誰かに自分が人を殺してるなんて話さないし、一緒にやろうなんてもっと云わん。云ったならどうかしてるし、聞くほうはもっといかれてる」
「うーん……、推測にしてもなにかこう、ぴたっとくる説がないもんですかねえ。ちょっと待ってください、一度整理してみましょう」
ネッドは指を折りながら話し始めた。「一件めの殺人はソガードの犯行を模倣しようとした様子はなくて、突発的な殺人であった可能性がある。二件めと三件めは模倣を試みるも不完全で、その後エイブラムスは大学の図書館で〝魅惑の殺人鬼〟の事件が載った記事を閲覧、四件めから再現度がぐんと上がる。凶器もこのときから変わっていて、共犯者を得たのは四件めの犯行以前である可能性が高い。……やっぱり、この共犯者ってのが鍵ですよね。どういう奴なら、殺しに手を貸そうなんて思えるんでしょうね?」
「どういう……」
サムはふと頭を過ぎっていったなにかを捉えようと、眉間に皺を寄せ視線を落とした。テーブルに広げた資料の数々を読むともなくざっと眺める――ラスベガス、ベイカーズフィールド、アナハイム、そしてサンフランシスコ。次も、その次もまた犯行はサンフランシスコで行われている。
「ソガードは三度続けて同じ街で獲物を探したりはしなかった。だがこの連続殺人では、四件め以降はすべてサンフランシスコだ。なにか
「理由……サンフランシスコ・クロニクルで採りあげられたいとか? でも犯行声明文とかは送られてませんしね。なんだろう、注目されたいとかしか浮かびませんね……」
「おい、縁起でもない。未解決事件*の話をするな」
「うへぇ、そうでした」
未解決になってたまるものか。サムは写真でしか知らないエミリオの顔を思い浮かべ、なにか手掛かりになるものはと資料を次々とひっくり返した。
再現度が上がり、凶器が変わった四件め。五件めの犯行現場近くで途絶えたエミリオの足取り。ソガードの犯行を模倣するのは何故なのか。同じ街で犯行を重ねることにリスクはあっても、メリットなどないのではないか。もしなにか狙いがあるとすればそれは? そして噂話……〝魅惑の殺人鬼〟は黒いマスタングで西へ――
「……ネッド。もしおまえがソガードの立場だったら……自分の偽者が自分を真似て、殺人を繰り返していたらどう思う?」
「そりゃあ頭にきますよ。自分はやってないのに、猿真似野郎が自分を騙って殺人を繰り返してるなんて許せるわけがないです」
「エイブラムスも共犯者も、そこに気がついてないんだろうか?」
サムがそう云うと、ネッドははっとした表情を見せた。
「もしソガードが本当に生きてたら、エイブラムスたちが狙われる?」
「俺はソガードが模倣犯を殺すとは思わんが、なにかしらの警告があっても不思議じゃないんじゃないか? エイブラムスたちに接触してくることがなくっても、なにかこう、自分の犯行じゃないとアピールするとか……
「……って、ソガードに会いたくて? まさか、いくらファンでもそこまではしないんじゃ……だって、もしも会ったら本当に殺されるかもしれないじゃないっすか。まだ逆に、ソガードを殺して自分が本物に為り変わるってんならあるかも……。そのくらいいかれてなきゃ、殺しまでやらないって納得の仕方ですけどね」
ネッドの言葉を聞き、サムはようやくついさっき頭のなかを過ぎったものをつかんだ。ぐるぐると渦を巻いていた黒い霧が晴れたように、探し求めていた答えが鮮明に浮かびあがる。真実に辿り着いたときの、あの手応えだ。
「そうか……それだ、ネッド」
「はい? ……それって、どれっすか」
サムはすっかり冷めている不味いコーヒーを飲み干し、云った。
「犯人はソガードを誘き寄せたいんだ。……たぶん、おまえの云ったとおりエイブラムスの最初の犯行は偶々で、共犯者はエイブラムスを利用してるんだ。おそらく、ソガードを殺すために」
ネッドが目を瞠った。
「ソガードを殺す? なんだってそんな」
サムは頭のなかで、浮かんだ推測を整理した。――殺人犯を誘き寄せて殺そうと企てるなど、考えられる動機はたったひとつだ。
「復讐だ、それしかない。四件め以降の犯行は、おそらく共犯者のほうが主犯だ。エイブラムスはもうひとりの思惑なんぞなにも知らず、巧く乗せられてるだけかもしれない。ネッド、ヴァーノンに連絡しろ。すぐに六年前の事件でソガードに殺された被害者の家族や関係者……父親、兄弟、夫や恋人を中心に洗うぞ」
「了解です!」
サムはテーブル中に広げた資料や写真を片付け始めた。――ファイルはぜんぶで八冊。もう、これ以上増やしてはいけない。そのために、六年前のあの事件の三十六冊のなかから、一刻も早く容疑者をみつけなければ――。
「ネッド。まだエッグタルトは残ってるか?」
「ひとつだけ。コーヒーっすか、俺のも頼みます」
サムは、残ってなければ外でランチと一緒に買ってきたのにと、少し残念な顔をした。
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※ ゾディアック事件・・・一九六八年十二月から一九六九年十月にかけ、サンフランシスコ
サンフランシスコ・クロニクル、サンフランシスコ・エグザミナーなど、犯人が新聞社に暗号を含む犯行声明文を送りつけたり、時には電話をかけるなど、劇場型犯罪のひとつとして、また〝アメリカ史上、最も有名な未解決殺人事件〟として知られている。
一九六九年八月四日、サンフランシスコ・エグザミナーに届いた犯行声明文に「私はゾディアックだ(This is the Zodiac speaking.)」と書かれていたことから、それが呼び名として広まった。犯人は三十七人を殺害したと主張していたが、ゾディアックによる犯行なのが確実であるとみられているのは、五件のみである。
サンフランシスコ・クロニクルで風刺漫画を描いていたロバート・グレイスミスは、ゾディアック事件に関心を持ち、事件が風化していくなかで粘り強く独自に調査を続けた。一九八六年、事件についてグレイスミスが書いたノンフィクション『ゾディアック』(ZODIAC)はベストセラーとなり、二〇〇七年にはデヴィッド・フィンチャー監督、ジェイク・ギレンホール主演で映画化もされた。
他にも日本未公開のものを含め、映画やドキュメンタリー作品はいくつも制作されている。なかでも人気作である『ダーティハリー』ではゾディアックキラーを元にしたとされる連続殺人犯が登場、主人公のハリー・キャラハン刑事もゾディアック事件を担当したサンフランシスコ市警のデイヴ・トスキ捜査主任がモデルである。
≫ https://ja.wikipedia.org/wiki/ゾディアック事件