「ねえキミ。芸能界に興味ないかなあ」
「はい?」
男は背が高く、若作りはしているが、杏奈の父親ぐらいの年齢のようだった。どうやら業界人らしく、細身のグレースーツで渋くは決めているがペイズリーのネクタイが派手だし、かけている
「キミならアイドル歌手になれるかもよ?」
「興味ありません」
杏奈の切れ長の目が横目で男をにらみつける。
「ほんとに?」
「まったく」
杏奈は無視して男をやり過ごそうと歩を早めた。
「じゃあ、女優さんなんてどう?」
男はなおも杏奈に追いすがってきた。
「あたし、ハード・ロックにしか興味ありませんから!」
「え?」
「失礼します」
杏奈はきりっと唇を結ぶと長い黒髪をひるがえして、男を後に足早で去って行ってしまった。男は雑踏に紛れる杏奈のスタイルのいい後ろ姿を見送りながら唇をゆがめた。
「ロックしてるねえ」
※※※※※※
杏奈はいろいろなバンドに顔を出していた。最強のバンドを作るためにメンバーを物色していたのだ。
バンドと仲良くなる方法はいたって簡単だ。杏奈はボーカリストとしてすでにある程度かおが知れていたのでスタッフには顔が効いた。ライブの打ち上げになに食わぬ顔で潜り込めばいいのだ。
ライブ演奏を聴いて、目をつけたバンドマンと酒を酌み交わしながら音楽の話で盛り上がる。このとき大切なのは、相手がどういうロックに心酔しているのかを見極めることである。
ロックと一口に言っても、その種類は多義に分かれる。相手がどういう
もともとロックとはエレキ・ギターを中心にした音楽のことをいう。
「ロックン・ロール」はチャックベリーを代表とする黒人音楽のR&Bから生まれたもので、演奏にはピアノやサックスなども加わる。あのビートルズもチャックベリーの音楽に憧れてバンドを始めたのは有名な話しである。
ローリングストーンズなどの白人ロックを「ブルース・ロック」と呼んだり、フォークとロックを融合させたボブディランのような音楽を「フォーク・ロック」と呼んだり、もちろん「ジャズ・ロック」もある。
また、ドラッグの影響を受けた幻想的なロックを「サイケデリック・ロック」と言ったりもする。
そして、電子音楽をふんだんに取り入れたピンクフロイドに代表されるような「プログレッシブ・ロック」がある。
ハード・ロックよりもさらに激しく、低音とシャウトを多用し、髪を振り乱しながら歌うのが「ヘヴィー・メタル」だ。そのヘヴィー・メタルをさらにアウトロー(無法)化させたのが「パンク」である。彼らは激しい音楽に尖った髪型や奇抜な衣装、けっして素顔を垣間見せることができない化粧を施したバンドである。
杏奈の目指すバンドは「ハード・ロック」だ。ボーカルのシャウトとエレキ・ギターのソロが絶妙に入る疾走感あふれるノリノリの音楽なのだ。
今日のバンド『モンタナ・シャドウ』のお目当てはベーシストの
「最終節のベースライン最高だったね」
喧噪の中で杏奈が熱い眼差しを斎藤に向ける。
「え、わかっちゃった?あれが分かるとはあんた、ただ者ではないな」
長身で長髪、無精ヒゲをはやしたベースマンの口がにやける。
「あのベース、WHO(フー)の“エントウィッスル”を彷彿とさせるわね」
斎藤の演奏の癖で、彼の好きなバンドを推測してみたのだ。斎藤は目を見張った。
「エントウィッスルはおれの憧れなんだよ。あんたの好きなバンドは?」
「モーターヘッド」
斎藤がさらにぶっ飛んだ顔をした。
「はじめて女の娘の口からその名を聞いたよ。普通、あんたらの年代だとツェッペリンとかディープパープルが出て来るもんだけどね・・・・・・」
「エース・オブ・スぺーズが最高!あたしシンプルで奥が深いロックが好きなの」
斎藤は持っていたビールをいっきに飲み干した。
「くうぅ、気に入った!きみなんて名前だ。メンバーにも紹介するよ」
よほどのイケメンでもない限り、ベーシストやドラマーに近寄ってくる女はいない。一番モテるのはボーカルで次にギタリストになる。ベーシストは自分でも、その存在意義を忘れてしまいそうになる時があるくらいなのだ。
杏奈は「モンタナ・シャドウ」にうまく取り入って、勝手にマネージャー的なことをやり始めた。
それと同様なことを、別のバンド『スパッシュ』でも実行し、ドラムの
そして杏奈は勝手に3つのバンドの共同ライブを開催する段取りまでつけてしまった。
その事件は、ライブの打ち上げで起きた。
酔っぱらったバンド間でロック定義についてぶつかり合い、大乱闘になってしまったのである。最終的にはそもそもの発端が、斎藤、滝沼、宮野の3人が、各々のバンドに杏奈をわが者顔で出入りすることを許したことだということになり、とうとう彼らはバンドから追放されることになってしまった。
「まいったなあ・・・・・・」
目の周りに痣を作った斎藤が、夜空を見上げてつぶやいた。ベースギターを重そうに担いでいる。
「ゴメンネみんな」
杏奈は小さな声で謝った。
「杏奈のせいと違うだろ」
肩幅の広いドラムの滝沼が杏奈をかばうように言った。
「おれ、前から誘われてた別のバンドにでも入れてもらうわ」
背が高く痩せていてダメージ・ジーンズを履きこなすギタリストの宮野がタバコをくわえたまま言った。
「みんな。わたし達でバンド組まない?」
杏奈が3人の前に立ちはだかる。
「バンド名は決めてあるの『ネッシーの卵』っていうんだ」
3人のバンドマンは顔を見合わせるのだった。
(うまく行った)
※※※※※※
『ネッシーの卵』はライブを重ねてあっという間にファンを獲得して行った。そしてメディアでも注目されるようになり、とうとうメジャーデビューすることが決まった。
その日4人は控室で出番を待っていた。そこへあの
「あ、片桐さん!」
3人が声を揃えて起立した。
「おう」
片桐は片手をあげて挨拶をした。ひとり取り残されて椅子に腰をかけていた細身のジーンズ姿の杏奈も一応ペコリと頭を下げる。
(この人業界の有名人だったのか)片桐は杏奈に笑顔を向けた。
「これでようやくキミを
「え、何ですか?」
「覚えていないのか。あの時きみはハード・ロックじゃなけりゃ厭だと言ったじゃないか」
「どういう意味?」
「この3人は、おれがきみのために
「え、そんな」
「きみの好みを調べるのに苦労したけどな」
「ぼくらも杏奈のボーカルに惚れてたしな」とベースの斎藤が言った。
「バンドを辞めるきっかけがなくってよ」ドラムの宮野がウィンクしてみせた。
「ところで、なんでバンド名を『ネッシーの卵』にしたんだね?」
片桐が杏奈に訊いた。
「そういえばおれ達もまだそれ訊いてなかった」とギターの滝沼が言う。
「わたし、とにかくロックが好きなの」杏奈が太陽のようににっこりと笑った。
「6月9日はロックの日、そしてネス湖のネッシーの写真がはじめて新聞に掲載された日なのよ。それから卵の字の形がちょうど数字の6と9を並べたように見えるから卵の日でもあるわけ。それでネッシーの卵!」
片桐はこのあいだと同じように唇をゆがめた。
「おねえちゃん。相変わらずロックしてるねえ」