「あなた。これ捨てるわよ。いいわね」
やるやるとは聞いていた。妻による
「ちょっと・・・・・・それはぼくたちの想い出の品じゃないか」
「でももう使わないでしょ」
「それはそうだけどさ・・・・・・」
遺品整理や相続の準備をやらずにおくと、いざとなった時に家族や親族の負担が大幅に増えるという。たしかに不幸というのは突然やってくるものである。もしもそうなったとしたら・・・・・・
「とくに大きくて要らないものは早く処分しなければダメなのよ」
「どうして?」
「だって、体力があるうちじゃないとできなくなるじゃない」
「そんなの」わたしは些細な抵抗を試みる。「いざとなったら業者に頼めばいいじゃないか」
「この世の中、人の弱みにつけこむ悪徳業者がどれだけいるか分かったものじゃないのよ。時間があるうちなら、業者だってじっくり選べるってわけ」
「それはまあ、一理あるとは思うけどね。甘い言葉でなけなしの退職金をごっそり奪われた老人の話しはきいたことあるけどなぁ」
「でしょう。あなた、これも書いて欲しいんだけど」
そう言って妻はわたしに一冊の薄いピンクのノートを差し出した。
「なんだいこれ、エンディングノート?」
「そうよ。それにあなたの希望するお葬式の形態。延命治療を望むか望まないか。自分が判断できない状態の場合に判断をゆだねる人の名前、不用品の処分や引き渡し方法を書いておくの」
「なるほど。で、きみはどうしたんだい?」
「遺産は誰にどれぐらい渡したいのか。葬儀は家族葬。お墓は要らない。戒名も不要。延命治療はしない。わたしが判断できない状況になったらあなた。それが無理なら妹に判断してもらうことにしたわ」と妻は事務的ともいえそうな、そっけない言葉で言うのだった。
生きているうちに、自分の死を見つめるというのは必要なことだろう。しかしそうは言っても、やはり一抹の寂しさはつきまとうものだ。
「あ、それからエンディングノートはお互い何かあるまで中身は見せないことにしてもいいのよ」
「なぜだい?」
「夫婦だってプライバシーってものがあるでしょう?」
「そうか。わかったよ」
なんとなくそれも寂しいものがあるよな。
それからというもの、わたしたちは不要なものはなるべく自治体の家庭ごみやフリーマーケットに出して減らすことにした。そう、わたしたち夫婦は必要最低限のものに囲まれて過ごすことになったのだった。
わたしはガランとした部屋を見渡した。この部屋、本当はこんなに広かったのか。そして最後に残ったのは・・・・・・
「だいぶ片付いたわね」
妻の柔和な顔をようやく見ることができた。
「そうだね」
わたしは長年連れ添った妻の顔をまじまじと見つめた。
「それで、最後に残ったのは」わたしは自分を指さした。「まさか・・・・・・このわたしか?」
そのとき妻はわたしの身体にか細い腕を巻きつけた。
「馬鹿ね」妻は上目遣いにわたしの瞳をのぞき見る。「あなただけは最期まで手離すもんですか」
こんなことは何年ぶりだろう。わたしは思わず弓なりにくびれた彼女の身体を強く抱きしめていた。
「絶対に?」
「そう絶対に」