目次
ブックマーク
応援する
5
コメント
シェア
通報

第49話 魂の封印が一気に弾け飛んでしまった




 トリスタンとイゾルデ『愛の死』。


 悶絶しながらも死して至高の愛を成就するという究極の想い。初めて聴いた時はなんて狂おしくて恐ろしい美しさをもった曲か、とむしろ畏怖した。深優人みゆともそうだったという。



『でもいつか必要になる日が来るような気がして、つい聴いてしまうんだ……』


 と遠い目をして語っていたのを思い出した。


『そうだ、あれを聴いて逝こう――――』



 ……深優人みゆとくん……結局あなたを忘れる事なんて出来なかった……。今、私の体が、心が、生きる事を拒絶してる……。


 そう、分かってる。だって勝手に心が伝わってしまうのにけがれた心を一切見せず、傷ついている私の心に寄り添う誠意を見せ続けてくれた。そうして最後まで心の底から私を愛してくれていた。


 誰も信じる事が出来ない人間として生まれて来てしまった私を救えた唯一の人。

 ……だからこそ失う事など考えられなかった。


 でも運命がそれを許さなかった……


 けどね、どうせ死ぬなら絶望の上ではなく、安らかに逝きたい……。だから今、私は思うの。


 この先、不本意な愛に身を任せる位なら、誰のものにも成らずあなたへの愛を想いながら死ぬ事が、あなたが見せてくれてた誠意に応える唯一の証しになると。


 トリスタンとイゾルデ。死して初めて成就出来る究極の愛……あの頃の私には何の事か全くわからなかった。


 でも今は違う。死をもって私の愛が本当にあなただけのものだったと証明出来るなら、それこそが究極の愛の姿……


 イゾルデ……今の私ならその気持ち、分かります……。



 そうしてかつて畏怖したその曲に耳を澄ませた。



▼Youtube トリスタンとイゾルデ  『愛の死』

https://youtu.be/BCYaIKI4J4Q?si=4KZx0bxpkRQY5ozM

(7分21秒)




 美しい思い出を辿りながらただそこに同化してゆく想い。だが繰り返し聴いて行くうち、それは少しずつ百合愛ゆりあの内に変化をもたらした。


 そこには自分の魂の叫びがあった。内なる苦しみの代弁―――自分の中の狂気が聴くほどに却って浄化されていく。


 誰にもぶつけられぬ想いが次第に昇華されていくのを感じ、寸前の所で自分を取り戻して行った。

 そしてこの曲は心の一部となった。



  *



 時は流れ、追憶は消せずとも感情だけは乾かす事が出来てきた。端から見たら何の悩みも抱えていない美しい女の子、そんな所まで回復した。


 そうした中、突如父親の日本再配属の話が出た時に、血の滲む想いで心奥に封じたその魂の封印が一気に弾け飛んでしまったのを覚えた。


 今さら戻っても彼の心は別の所に在ったらどうしよう。今度こそ正気を保てるだろうか。失望しない為に一切の期待をすまい、そう考えた。


 それでも絶対に逢いに行ってしまうだろう……。 再会するまではそんな自分がこわくて堪らなかった。




―――そして百合愛の不安は杞憂に終った。




  * * *




 再会した日の夜


 深優人みゆとの歓迎の意を確かに感じて舞い上がった百合愛ゆりあの胸は熱く火照り、冷める事を知らなかった。

 夢なら絶対に覚めないで欲しいと祈った。じっと出来ず部屋を歩き回った。


 全身の細胞が喜びに満ち溢れ無限に何かが沸いて来て、上気して耳まで熱いのが分かった。溜息が何回も出た。

 いつの間にか口元が上がっていたり、抱き枕を意味もなく取り上げぎゅっとしてみたり、余りの落ち着きの無さに自分でも苦笑してあきれた。


『でもこれは仕方ないよね。はぁ―っ、おフロに入って落ち着こう』と、自分を律した。






◆◇◆

 ……お兄ちゃんは生徒会の手伝いで先に行っちゃった……だから今日は百合愛ゆりあお姉ちゃんと二人で登校だ。


 学校は違うから駅までだけど、一緒に行くなんて……小学校の頃はいつも3人だったな。

 あの頃いつも本当の姉の様に慕ってて……お兄ちゃんと歩く二人に憧れてたなぁ。まさかその憧れの人と恋敵になるかも知れないなんて……。



 先日、澄美怜すみれの放ったあの一言―――自分には深優人みゆとの恋人になる資格が無いと、泣きながら自ら志願してこう言った。


『妹のままでいさせて』


 だがそれには『まだ』という前置きがされていた。つまり諦めきれていないのだ。


 ……アア、しかも更にあんなにキレイになって帰って来た……


 ルックスでは澄美怜すみれも学校で相当評判だが、百合愛ゆりあと並べば全てにおいて劣ってしまう。

 どう見ても美モデルそのもの。昨日の登校時も兄と歩くこの人はサイドだけ軽くウェーブをつけてエレガントに流した髪をたなびかせ、すれ違う人に振り向かれる事もしばしば。それでもお高くとまるところを微塵も感じさせない優しい気な笑顔。


―――ああ、何もかも私、負けてる……


『うわーあの人、お姉ちゃんの完全上位互換だ……』


 百合愛ゆりあの突撃を目にした妹・蘭が抱いた第一印象だ。渡米前、年齢差もあり、ほぼ一緒に遊んだ記憶はなかった蘭。

 百合愛ゆりあとつから去った後で素直にそう口にしたのは、その飛び抜けた美貌に驚いただけでなく、『お姉ちゃん頑張らないとヤバイよ』 という警告の意味で言っていた様だ。


 待ち合わせた百合愛ゆりあの家の瀟洒な門扉の前にボンヤリと立ち、更に思い悩む澄美怜は、


 ……ロリ妹風味のあざみさんも可愛さで学校随一の人気があったけど、私とは路線が被らなかった。でも上品笑顔をまとうキッカケとなったこの元祖の前では私は単なる2番煎じ。

 最も憧れてくっついて歩いて居たかった人が今、最も並んで歩く事に気が退ける相手だなんて。だって私は単なる劣化版にして引き立て役。ホント自己嫌悪になるな……


 とそこへまるでそよ風のようなオーラがそよぐ。


「おはよう、澄美怜すみれちゃん!じゃ、行こっか」


 待ち合わせ早々、キラキラが笑顔の周りに舞っている。ただそこに居るだけで盛大に花を飾ったかの様に場の空気が変わるほどだった。







この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?