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第54話 世界が闇だらけだとしても




――――その曲はスクリャービン作曲、

 ピアノソナタ2番 別名 「幻想ソナタ」


 この第1楽章をいつか恋人として二人きりで聴けたら……。そんな深優人みゆとの夢が叶えられてゆく。





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■スクリャービン ピアノ・ソナタ2番

  『幻想ソナタ』 第1楽章


▼Youtube

https://youtu.be/bNgyOdkPTVw?si=RAUmqwADJa6Nmdbe

第一楽章は、0~7分13秒まで。

(第一楽章のあと直ぐに第二楽章が急き立てるように続けられるのでご注意を)




 ……深優人みゆとくんと同じ世界に入って、同じものを見たい! いや、絶対に観る!


 ……夜、海、月、反射……それを意識しとこう、と百合愛ゆりあは健気にも集中する。


 そして最初の1音の響きがガラリと部屋の空気を変えた刹那、一瞬でその世界にいざなわれた百合愛。ただひた向きにその曲想をトレースし始めた。




  : + ゜゜ +: 。 .。: + ゜ ゜゜




 ああ、峻厳な音色から始まった……


 一音で判かるそれは夜の闇

 この世界に満ちる闇への畏怖


 ああそうだ きっとこれは夜の海   

 そこを渡る孤独な小舟の中にいる


 自分の未来を案ずる不安な旅路   

 たどるべき航路を探して彷徨う憂いの世界


 やがてその闇を抜け、雲間から厳かな月の光が   

 虚ろで傷だらけになってしまった私の心に

 揺蕩たゆたいながら綿雪の様に降り始める

 穏やかな癒やしを伴って


 ただ舞い降りてくるあかりの粒を眺めながら

 息をひそめて光とささやき合う優しい世界


 次第に心に灯るものに気がつけば 

 あたり一面に歌と喜びが溢れ出した

 夜の海へ降った光の粒が波に揺れはじめ 

 戯れる水面でキラキラと照り返す


 漆黒にゆらめき 舞うその反射に  

 ただ心囚われ、呼吸も忘れて想う

 夢幻に浸りそれがうつつかさえ知れず  

 その優しさに抱かれる至福


 ただそれだけでいい  

 その優しさに抱いてもらえるなら……




 夢が覚め、不意に何かに気づく 

 あなたはもう去ったのかも知れないとざわめく


 自分が変わり再び闇に包まれ分からなくなる 

 でも既にこの想いは燃え出してしまった


 気付けば緋色に焦がれ焦がされて

 後戻りさえ赦されず


 でももしこれ以上踏み込めば 

 再び全てを失うかも知れない


 行くも戻るもできなくなって 

 只おののいて立ち尽くす……




 ああ、ならば神よ! あと一度だけでいい

 せめてもう一度あの優しさを……





 気付くと闇夜の海にただ独り舟の上

 脱け殻となって漂う心に

 無音の光の粒が降り始める

 優しく寄り添うように 囁くが如く


 そこに再び雲の隙間から一条の月光の粒が 

 ただ語るでもなくおぼろげに降り続く


 ただそれを眺めるしかなくこの手をかざし

 それでも降り続く癒しを受け続ければ


 傷つく事を恐れ拒んだ心でさえ  

 いつの間にかその光に包まれてゆく

 やがて闇夜を切り拓くように射し込めば 

 癒やされゆくほど気付いてしまう  


 結局この優しさにほだされて

 いざなわれるしか無いさだめだと


 それでいいとようやく分かった  

 出逢ってしまったその時から

 逃れる事など出来なかったのだと


 こんなに優しくされ人生が豊かに謳い出す

 水面みなもに照り返す月光の熱にうかされ

 その煌めきに身を委ねて


 世界が闇だらけだとしてもその小舟に乗って 

 光の照らす道へと進んでゆく

 もうあの悲しみを恐れない  


 その聲を訊きながら共に進めるなら

 この闇の向こう

 どこまでも行けるから……



 そして夜のとばりは二人を載せた小舟を 



 やさしく闇にかくまってゆく……





  : + ゜゜ +: 。 .。: + ゜ ゜゜




 震える細い肩。―――その最後の響きの余韻が消える前から、百合愛ゆりあは涙を流していた。


 何故なら百合愛ゆりあの中の曲想はまるで今の自分の境遇そのものを表している様に思えたから。

 だからこそ激しい喜びの感情に襲われた。


 ――――その理由。



「私にも……見えた……月夜、海、水面の煌めき……深優人みゆとくんと同じように……」



そしてそれはただ見えたのではなく、もはや完全にそこに同化していた。持っていたハンカチをそっと百合愛ゆりあの頬に当てる深優人。


「そっか。良かった……同じで。なんか嬉しいな」


「ありがとう。スッゴク気に入った、この曲。記念日、ささやかな……ううん、遥かにそれ以上の記念日になったよ。この気持ち、今最高に高まってる。……深優人みゆとくんは?」


「もちろん俺も」


 それなら!! ―――― 期待で胸が熱くて止まらない。


 互いの瞳は潤んだまま捉えてもう離れない。瞳孔の更にその奥まで射抜くほど見つめ合う。百合愛ゆりあは目を静かに閉じた。


 二人は長い時と距離を乗り越えて、遂に幸せな気持ちで顔を重ねた。


 最初は全ての優しさを持ち寄り合って、そっと。


 そして逢えずに堰き止められていた想いは決壊し、この数年を取り返さんばかりに激しく、そして気の済むまで唇を奪い合い、そして抱擁した。


 悲しい思い出が新しい思い出となって上書きされた。 そしてこれがどんな結果となって行くのかを百合愛ゆりあだけが勘づいていた。


 顔を離した直後、百合愛はまるで熱病にかかって力尽きたように脱力して深優人みゆとの肩に持たれかかかる。


 果てた情熱はやがて安らぎへと落ちついて行き、満足げに溜め息をついて深優人みゆとの胸に顔をうずめた。


 そのまま止め忘れていたオーディオからは次のプレイリスト曲『マーラーのアダージェット』が二人を優しく祝福するかの様に、ただ静かに流れ続けていた。


 幸福感で埋め尽くされ、時間ときの静止したこの部屋で、百合愛は一生この日を忘れないだろうと確信した。




▼マ―ラー交響曲 第5番 第4楽章


「アダージェット」


https://youtu.be/Fvb1ITRFXhc?si=si0R90BbXuwTwDMO





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