旅立ちを祝福するように天気は冴えわたっていた。それと比例するようにシェリーの緊張は最高潮だった。馬車という狭い空間で向かい合う形となって座る一組の男女。他には誰も見当たらない。
(普通に考えて未婚の男女が一つの馬車に従者も侍女もつれず二人きりというのは良いのでしょうか……。と、いうより相手が王族というのも問題だと思いますし。)
身の置き所にいたたまれなくなり、もじもじと俯く。柔らかく上等な座面が小憎らしいとも思う。
(あ、もしかして獣人さんはそういう男女のことに関しては寛容なのでしょうか。獣人の女性はお強いといいますし。)
ちらりとレオニードを見れば、空色の瞳とばちっと視線が絡む。
(うっ……。)
「そんなに緊張しないでくれ、こちらまで意識してしまう。」
「あ、すみません。」
言われて反射的に答えたものの、どうしていいかわからない。人間の貴族相手ならこれほど緊張もしないし、きっと相手を飽きさせない程には話題の提供もできるだろうが、獣人がどのような話題なら喜びどんな話が触れてはいけない領域なのかわからない。
と、いうより。
(耳としっぽ触りたい。)
しかし、獣人によっては触られるのを嫌がる者もいるというし、無遠慮に手を伸ばしていいものなのか悩む。
(でも、昨日の肉球は許してもらえたし……。また触らせてもらえないかなぁ。)
不敬とは思いつつも、ついついその手を見つめてしまう。男性らしい大きな手は剣を扱うのだろう。見るからに皮が堅そうだ。そういえば長兄も昔は豆を作っては潰して、その下から一段と硬い皮になっていった。きっと目の前の殿下もそうしてあの手になったのだろうと思う。
(兄さまは家族を守るために強くなるって言ってた。王太子殿下はそもそも強さを求めなかった。あの方は守られる側と言っていたし、この方は何のため?やっぱり国や国民のためなのかしら?)
思考を飛ばしていたものの、その視線は変わることなくレオニードの手に注がれている。
にぎにぎ。
見つめていた手が握っては解いて握っては解いてを繰り返す。
「ん?」
「そんなに気なるか?昨日は随分と気に入っていただけたようだが。」
くすりと笑ってその手が再び肉球のもふもふへとたちまち変貌する。
「はぁぁ~!」
令嬢らしからぬ奇声をあげ思わず身を乗り出す。触ってもいいのかわからず両手を口に当てて羨望の眼差しを向ける。
「触っていいぞ。実は私もあのマッサージは気に入ったんだ。頼めるか?」
ただただ肉球を貪っていただけなのだがマッサージなどという大義名分が付いたうえに頼まれたとあっては遠慮なく触るという選択しかない。
「では、僭越ながら……。」
言葉と同時に手を伸ばせば、その柔らかな手に体ごと引かれて腰が浮いてしまう。
「え?あの……。」
身に起きたことがしばし理解できずに視線を上げれば存外に近い空色の瞳に心臓が跳ねる。
「これは……えっと。」
「向かい合って座っては遠いだろう。かといって隣ではやりにくいだろうと思ったんだが。それに馬車は王都から離れるほど道が悪路になって思っているより揺れることもあるだろうし、こうしていれば安全だ。」
理屈で言えばそうなのかもしれない。とも思いつつもそれと恥ずかしくないかどうかはまた別の問題だと上気する頬を隠すこともできず、レオニードの膝の上に横抱きにされており、その右手はシェリーの肩を優しく抱え、左手が差し出される。腰になにかするりと触れたかと思って視線を下げるとしっぽが腰に巻き付いていた。その力は強すぎることなくかといってただ巻かれているのではなく、きちんと支えられていることが分かる。
(意外としっぽというのは器用なのですね。)
率直な感想を想っていると、ふと肩が軽くなったかと思うと頭に何かが触れ編み上げていた髪が解かれてまた肩に手がかかる。その指がもてあそぶように髪を触るのが分かる。
思わぬ出来事に目を見開き見つめてみるも、淑女の髪を解くなど無遠慮なことと諫めていいのか、そもそも獣人の女性が異性から髪を触れられることに対して意識しないのであれば自意識過剰と思われてしまうかもしれない。
「シェリーの毛並みは絹のように柔らかく滑らかだな。」
耳に近い位置から聞こえるバリトンの声に思わず肩が跳ねる。それに気づいているのかいないのか「ずっと触りたくなるな」とささやかれる。
(心臓に悪いっ!!や、まって毛並みというくらいだから毛づくろいと同じことなのかもしれない。)
どうにか心を落ち着けようと差し出されたもふもふの手を無心で揉み始める。
(婚約者であった王太子相手ですらこんなことされたことなかったというのに、この動悸はどうしたら治まるというのですか!?)
シェリー・アイスクリン落ち着いた見た目から22歳などとよく言われがちであるが初恋すらも未経験の花も恥じらう17歳。固くつけた蕾が綻びを迎えるのはもう少し先だろうか。少女はその動悸の正体をまだ知ることは無い。