レオニード視点
狭い馬車の中に焚き染められるように充満するその甘さにレオニードは意識せずとも深い呼吸を繰り返す。人間より発達したその器官は本能が求めるままにその香りを肺へと届け、血肉へと変えようとするようにより多く体に取り込もうとする。そうすることで満たされようとするように。
(いかん。気づかれたら変態だと思われてしまう。)
感情より先に本能が求め体が動く。抗いがたくその衝動と心地よさに身を任せたくもなる。それが唯一の番という存在。
個体によっては死ぬまで出会えない者もいるという。繁殖適齢期に出会えたのは僥倖だろう。
ふと愛しきものに目を向けると視線は彷徨っている。しばらく観察しているとそわそわと所在なさげにしている。一度視線が合ったがすぐに逸らされてしまった。地味に悲しい。そんなレオニードの胸中などシェリーは知る由もない。
赤くなったかと思えば途端に目を見開き冷静な表情になり、また赤くなってを繰り返している。
(男女が二人だけで密室にいることを心配しているのかもしれないな。だが文化の違いが分からないといったところか?)
人族も獣人も男女の貞操観念はほぼ同じである。もちろん獣人であろうと未婚の男女が同じ空間に共も連れずなど憚られることだ。これが自国の令嬢やほかの人族のメスというなら即座に止める者がいるだろう。
しかし、そうならないのはひとえにシェリーがレオニードの番であるからだ。獣人であれば誰もが理解するその特別な存在に出会えた喜びを迎えた主を慮り皆が黙殺している状態であることをシェリーだけが知らない。なんなら既成事実を作ってさっさと嫁入りしてほしいと無言の期待を向けられている。
今頃アニマ本国には王子レオニードの番が見つかったことが伝えられ、国を挙げての歓迎モードに切り替わりつつあるだろうことも容易に想像できる。
そんなシェリーがじっとレオニードの手を見つめている。
(手?ああ。そうか昨日も情熱的に揉まれたからな。)
獣人にとって獣化を見せるのは感情の制御が利かなくなり、本能をむき出しにしている印なので褒められたことではないが、獣化した部分を触らせるのは信頼と愛情の現れだ。
考え事の果てに行きついた視線なのか確かめるように手を動かせば、食い入るように見つめられて思わず微笑みがこぼれる。
たとえどんな醜態だろうと気に入ってもらえたならそれを生かさぬ手はない。
期待に応えるように手だけ獣化すれば感嘆の声が漏れる。透明な幕を孕んで潤んだ瞳が愛しく、口元に添えられた小さな白魚のような手が愛らしい。
触ってもらえる大義名分を与えれば嬉々として手を伸ばされ、ちょっとしたいたずら心が頭をもたげる。
触れられる前にその小さな手を握り込みちょっと手を引くと馬車の振動でこちらへと飛び込んできてくれる。ふわりとその身を受け止めてすかさず腰と膝の裏に手を入れて横に抱え込む。警戒されて離れられでもしたら死になくなるだろう。そうなる前に状況の説明をし、誤魔化すように獣化した左手を差し出す。
しれっとしっぽをその細い腰に巻き付ける。獣人が異性へしっぽを巻き付けるのは独占欲の現れでそれを拒まれないことは求愛を受け止められていることと同義なのだ。相思相愛ラブラブなカップルは互いのしっぽを絡ませることもあるが、人族であるシェリーにそれができないのは残念ではあるが、今はこれで満足し代わりと言わんばかりに彼女の髪を梳くことにした。
陽にあたり温かな車内で熱心に肉球を触っていたシェリーは次第にその瞼を閉じて寝てしまった。
(異性と意識されない程に無防備だと嘆くべきなのか、この手を見ても警戒されてないと喜ぶべきなのか。)
男心は複雑である。
それでも腕の中にいる確かな存在に安堵と喜びのため息が漏れる。思わずその髪に頬を寄せてすりすりと本能のまま、自分の匂いを移すように擦り付ける。
それだけでは足りずつむじにキスを落とし、額をついばむように何度も口づける。その額に自身の額を起こさぬように押し付ける。これも獣人の求愛行動の一つだ。
夢中になってそうしていると柔らかな頬に唇をよせてそっと食む。けして貪るのではない。愛しい思いを込めて甘やかに柔らかなそれを確かめるように壊してしまわぬよう細心の注意で口にする。
そうして可愛らしい耳も食んでみる。「ん……。」と甘い反応がして全身の毛が反応する。
「早く私のものなっておくれ。」
思わず耳にささやくと、いつの間にか止まっている馬車の外からノックがされる。どうやら今日の宿に到着したらしい。
(危うくイケナイことをするとこだった。)
初めてのキスをするなら起きてるときがいい。
(どんな反応をしてくれるだろうか。)
柔らかく触れて啄み深く潜り蹂躙して呼吸すらも奪ってしまいたい。
(や、死なれたら困る。私が死んでしまう。)
成人したばかりの小僧でもあるまいしと自嘲をしつつ、そっと起こしてしまわないように抱いて馬車を降りる。
「お眠りになりましたか。」
「昨日もいろいろあったし、車内でも緊張していたようだからね。……顔は見るなよ。」
(長年付き従う従者にすらその姿を見せるのも惜しい。重症だ。)
普段冷静な主の思わぬ言葉にそばに控えた男は狼狽する。いや、番とはそういうものだと思いつつも言わずにはいられない。
「そのように威嚇して独占する様を見せつけずとも誰も取ったりしませんよ。」
「そんな者がいたら八つ裂きにしてしまいそうだな。」
「貴方が言うと洒落になりませんから自重してください。」
「それだけ特別なのだから仕方ない。」
そういって蕩ける様な笑みをむけていることを白き乙女はまだ知らない。
(ああ、いつになったら俺のものになってくれるだろう。)
欲を抑え込むように、周囲へと見せつけるようにそっと額に口づけた。そんな主を従者たちは微笑ましく見つめるのだった。