ルリが僕を見ようともせず、床にお札を並べてドライヤーで乾かしている姿はまるで悪魔に取り憑かれたようだった。
そして彼女は7年我慢して僕と付き合ったのだから、その苦痛の時間をお金に変えていると言い出した。
僕の「好き」を突き詰めてきた彼女は当然、僕の「嫌い」も突き詰めている。いつも僕を癒してくれた彼女が僕に嫌われようと演技までしている。それ程までに彼女は僕と離れたがっていた。
心からルリを愛していた。
彼女がいない人生など考えられない。純粋で一生懸命な彼女が愛しくて仕方がない。彼女は二人といない女だと僕自身が嫌という程知っていた。淡々と仕事をする毎日でルリの存在だけが僕の心揺り動かし生きている実感をくれるた。女に溺れるなという祖父の助言など、心底どうでも良い。彼女に溺れて破滅するなら本望だ。
やっと名前を呼んでくれた彼女の左手の薬指に婚約指輪を嵌めようとした時に僕は自分の傲慢さに気がついた。
指輪のサイズが彼女の指に合っていない。
今までのルリなら、指輪のサイズが合っていない事に気が付かないフリをした。
(それがバカのフリというのだろうか⋯⋯)
彼女はいつだって僕が気持ち良く過ごせるよう自分の気持ちを後回しにしていた。そして、そんな彼女の健気な思いやりは僕の心をいつだって温めてくれた。
僕はいつも自分のことしか考えていなかった。手放せない程の存在であるルリに対しても、戻る場所がないのだから結婚しなくても側に置けると見做していた。不満を持たれても、どうせ彼女には僕しかいない。女は金さえ渡せば結局満足するという祖父の思想を僕も持っていた。
金で満たせない愛に満ちた女性だからこそルリに囚われたのを分かっていなかった。
今のルリは完全に僕から心が離れている。僕の弱さや狡さをも慈しんでくれた彼女が、僕に幻滅している。
ルリは僕を切り捨てる判断をし、姿を消した。やっと見つけた彼女は僕を決して受け入れなかった。
「穢らわしい」「もう好きじゃない」
本当はそんな風に思われているかもしれないと感じていて、怖くて彼女を避けていた。そして、決定的に別れを告げられてしまった。
次の朝、彼女をモーニングに誘い出会った日の気持ちを思い出して貰おうとした。ルリは優しいから、結局は僕を許してくれるという期待は裏切られた。
彼女がバイトに行くと言ったので後を追うと、和かに昨日一緒にいた男と言葉を交わしていた。
ルリが彼にエプロンをつけてもらう様子はまるで新婚夫婦のようだった。男の方は彼女に明らかに惹かれている。僕を虜にした彼女の特別な魅力を他の男に晒したくなどなかった。
彼女は浮気などできない真面目な性格。でも、僕から心が離れた今では、他の誰かに浮気ではない本気の恋をする。
僕はとてもじゃないが声がかけられず、その場を離れた。
ストリングスカフェ銀座の閉店時間に合わせて店の前まで来ると、ガラス越しに彼女が他の男に抱き締められているのが見えた。
ショックで心臓が止まりそうになり、一瞬動けなくなった。
そして、次の瞬間、彼女が気を失ったのが分かり僕は慌てて店に入った。
「ルリ!」
僕は男から無理やり彼女を引き剥がそうとする。
「真咲社長、ルリさんとはもう別れたんですよね。彼女に触らないでください。彼女はこれからは僕が守っていきます」
「何を言ってるんだ? ルリは僕の女だ」
「ルリさんはもう貴方とは難しいと言ってましたよ。こんな、ちょっと強く抱きしめたら気を失っちゃうような子を傷つけるなんて最低ですね」
目の前の男はまるで自分がルリを守るヒーローだとでも主張したいようだった。
ルリの顔は血の気が引いていて、ぐったりとしていた。
「自分がルリの男になれると思ってるのか? 僕とは難しい? それでも、ルリはお前ごときが付き合える女じゃない。とっとと失せないとこの店潰すぞ!」