僕の本気を感じ取ったか、男はルリから名残惜しそうに手を離した。
僕はルリを連れてマンションに戻った。
自分の部屋のベッドに彼女を寝かせると、前にルリが倒れた時にも呼んだ女医に連絡した。
僕がルリが倒れた時の状況を説明すると、女医は信じられないような事を言った。
「モリモトルリさんが、男性恐怖症という事はありませんか? 前に、レイプ被害に遭われトラウマを負った患者さんを診察した事があるんです。男性と二人きりの状況でフラッシュバックを起こして失神した事がありまして⋯⋯」
「ルリが男性恐怖症? いや、それはないかと⋯⋯」
「前に倒れた時も男性とエレベーターで二人きりだった時ですよね」
僕は彼女と7年も付き合ってきた。
ここ1年は距離をとっていたが、その前はほぼ毎晩のように愛し合っていた。
でも、出会った時の彼女は確かに僕に対しても怯えていた。
初めて抱いた時もずっと震えていて涙も流していた。もしかしたら、彼女は多くの恐怖と闘いながら僕の側にいてくれたのかもしれない。そして、そんな彼女の気持ちを踏み躙り苦しめるような事を僕自身がした。
ルリがうっすらと目を開ける。
女医の診断を聞くなり、彼女が俯いて震えているのが分かった。
僕はそんな彼女を見ていられず女医を帰した。
ルリは本当に優しい。
自分のことしか考えられない僕とは違って、僕が男といる彼女を見て傷ついたのではないかと心配していた。愛情が深く優しい彼女に甘え続けて、彼女がいないと生きていけなくなっているのは僕の方だった。
彼女は最低な事をした僕を許し、僕のことが好きだと言って受け入れてくれた。
大河原麗香との婚約の破談を聞きつけた祖父から直ぐに呼び出しがあった。真咲グループの会長室に入ると、祖父はいつになく険しい顔をしていた。
「隼人、お前らしくない。大河原麗香との婚約はグループ会社としても大きな利益をもたらす。もう一度考え直しなさい。来月にはお前が真咲グループのトップだ。トップらしい決断をしなさい」
「結婚したい人がいます。彼女を愛しています。だから、大河原麗香とは結婚できません」
挑戦的な視線を送ると、祖父は強く机を叩いた。
「その女は愛人にすれば良いだろう」
僕は祖父に育てられた。結婚は仕事、気に入った女は愛人にすると考える価値観を受け継いでいる。
「僕の愛する人は僕の全てを捧げないと手に入りません。だから、彼女と結婚します」
散々傷つけたのに僕を捨てないでくれたルリ。ベランダで震える体を抱きしめた時に、彼女を生涯をかけて守り抜くと僕は心に誓った。祖父は僕の宣言を聞くなり、怒りで震え出した。
「女ごときに溺れたのか? そんな一時の感情に流されるな! 利益になる女と結婚しろ!」
「彼女以外は僕にとって女じゃありません」
祖父は僕の言葉に目を見開く。僕にとってルリは女神で、他の女はハイエナと変わらない。
「冷静になれ隼人。10年経ったら、今、お前が夢中になっているその女も古びる。しかし、婚姻による結び付きがもたらしてくれる利益は続く」
祖父は僕が女好きな見た目をしながら、女を嫌悪さえしている事を分かっていない。「若く美しい女が好き」というのは女好きの男の考え方。僕はビジネス的に女好きを演じた方が得だったから演じていただけ。近付いてくる女たちの好意を利用してきた。僕が好きなのは純粋無垢で守ってあげたくなるようなお姫様で、強かでルックスと金目当てに寄ってくる女たちではない。
「僕を生涯溺れさせる程の女性と出会ったんです」
おとぎ話のハッピーエンドの後がルリとなら想像できる。12歳で両親を失った。政略結婚した両親は仲が悪く、両親は僕を真咲家の跡取りとしか考えていなかった。僕は自分のことだけを見てくれるお姫様に憧れた。そして、ルリと出会った。僕の理想を絵に描いたような彼女。きっと、彼女は可愛いおばあちゃんになって、僕に「永遠の愛」を教えてくれる。そんな素敵な未来まで想像させてくれるルリの魅力は底なしだ。
「どこの誰だ?」
低く少し掠れた声で祖父が呟く。
「会長は彼女に金でも渡して僕と別れさせようと考えてますね。彼女を傷つけるのであれば、僕は貴方に牙を剥きますよ。それに、彼女に金を渡しても無駄です。彼女は何百億積まれても、道端に落ちた一円玉のように無視して僕の側にいてくれる方です」
僕の言葉に祖父が息を呑む。ルリが大事にしているのは自分を必要として愛してくれる人の側にいることだ。7年かかって、やっと気がつけた。傲慢になってはいけない。ルリの心は常に不安でいっぱいで、愛を疑われたら離れていく。
僕は誰よりも彼女を必要としている。だから、彼女を伴侶にした上で、言動だけではなく行動で僕がどれだけ彼女を特別に思っているか示していく。誰にも邪魔させない。邪魔する人間は身内だろうと全員排除する。僕にはその力があるのだから。
「な、何を言っている。大体、どこでそんな女と出会ったんだ。噂になったモデルや女優ではないだろう。あの程度の女たちに溺れるお前ではない」
「7年前、店の前で声を掛けました」
「ナ、ナンパ?」
祖父が驚愕している。
僕はルリとの奇跡の出会いをナンパなどと低俗な名称で呼ばれて気分が悪くなった。
「ナンパではありません。クリスマスの奇跡が彼女を呼んだのです。とにかく彼女以外の女と結婚するつもりはありません」
「クリスマスの奇跡⋯⋯」
祖父が戸惑っているのが分かった。いつも、合理的で理性的な僕がドリーミーな事を言っているからだ。でも、ルリの存在は奇跡としか説明しようがない。
「とにかく、僕は仕事に戻ります。彼女と結婚します。これは決定事項です。失礼致します」
「ま、待て! どこの誰か言いなさい!」
祖父がいつになく焦っている。
「会長が邪魔する可能性があるので、入籍するまでは秘密です」
「隼人! 私は会社の利益以上に、自分の元で育てたお前の幸せを祈っている。だから、お相手の名前だけでも教えてくれ」