森本瑠璃との熱い一夜が嘘のように、翌日には彼女に拒絶された。沈んだ気持ちのままマンションに戻ると、エントランスで母が待ち構えていた。
母の目的は分かっていてため息が漏れた。仕方なく彼女を部屋にあげる。
俺が海外のボーディングスクールに通っていたのは親の教育方針だ。園田家はホテル業をしている。将来のインバウンド需要と海外進出を見越し、跡継ぎの俺に国際的な感覚を身につけて欲しいと幼い時から海外に出した。しかし、俺は空への憧れが捨てきれず、パイロットになった。
2歳年下の妹である琴音が家業を継ぐと言っていた。しかし、彼女は3年前にフランス人の新進気鋭画家と恋に落ちて、駆け落ち同然で渡仏し結婚した。それにより、親は再び俺にホテルを継いで欲しいと考えるようになった。
「一樹、お見合いの話を持ってきたのよ」
目の前に並べられる清楚な女性のお見合い写真たち。
母は妹が家業を継がないと分かると俺に次々とお見合い話を次々と持ってきた。家庭を持ってお嫁さんに支えられながら家業を継いで欲しい。母は身勝手にも俺に期待する。
「菅原百合子さん。23歳で今は大日本女子大学の文学部を卒業して花嫁修行中。16歳まではアメリカのシカゴで過ごしていた帰国子女。家柄もしっかりしてるし良いと思わない?」
母は俺が前回のお見合い写真を見た時に、「結婚するなら、清楚な美人が良い」と断ったのを気にしているのだろう。美しく若い女性のお見合い相手を見繕って母は持ってきた。
35歳にもなって、中身ではなく女性の外見をまず見てしまう自分を恥じている。だから、次に母がお見合い写真を持ってきたら、どんな相手でもちゃんと会ってみようと思っていた。
「ごめん。俺、好きな人がいて」
自分でも何を言っているのか分からない。「一緒の会社の人となんてありえない」と森本瑠璃に強く拒絶されたばかりだ。振られてるのに縋るのはカッコ悪いからしたくない。でも、昨夜の甘い余韻が俺を繋ぎ止める。
(「守ってくれなくていい! 私が一樹を守りたい。毎日癒してあげたい! だから、一樹はずっと私だけを愛して」)
涙を流しながら細い指で俺に絡みつく森本瑠璃。直ぐにでも彼女と結婚したくなった。彼女に守って欲しいのではなく、崩れ落ちそうなのに俺を守りたいという健気な彼女の側にいたいと思った。10年も付き合ってきた男に裏切られたのだ。普通でいられるはずがない。
あの夜は俺も彼女も酒に酔ってはいなかった。酔った勢いではなく、お互いに必要だったから繋がった。酔っていたとしたら、俺が彼女の魅力に酔っていた。一夜明けて、別人のようになった彼女を見ても諦められない。完全に拒否されているが、実は彼女も俺を必要としているんじゃという少しの期待感が残る。
「その方はちゃんとした家柄の方? 前の真美さんみたいな下品な女性は結婚相手としては不向きよ。お義母様の時代と違ってCAも最近は質が低下してるみたいじゃない。一樹は免疫がなくて女性を見る目がないから、心配なのよ」
母は以前紹介した真美だけでなく、元カノの美奈子の事も調べていそうだ。そして、俺が苦労して夢を叶えてパイロットになったのに、未だ時が来れば離職して家業を継ぐと考えている。
「俺になんか見向きもしないくらい、素敵な方だよ。聞いたところによるとクアトロリンガルのお嬢様⋯⋯」
中国人客からクレームがあった時に、森本瑠璃が中国語で対応したと聞いた事がある。風の噂で、彼女は英語とフランス語も話せると耳にした。森本瑠璃の家柄は知らないが、彼女には一目で分かる立ち居振る舞いの美しさがあった。そして、そんなお嬢様が淫らになった夜を俺は知っている。
日本に戻ってからは嫌になるくらいモテてきた。自分が常に女性を選ぶ側だった。みっともなく追わなくても自分と結婚したい女性はいくらでもいる。女性経験の少ない俺がそれくらい傲慢になった。
でも、森本瑠璃を手に入れるなら拒絶されても、追わなくてはならない。みっともないと思うのに、別人のような魔性のルリの幻影が俺を彼女に縋らせる。健気に見えて男を屈服させてしまう彼女の魅力に俺は取り憑かれた。
「あら、ちゃんと心に決めた方がいるのね。だったら、ちゃんと紹介しなさい」
母の顔は穏やかになった。海外では割と普通にいるが、日本ではクアトロリンガルなんてそうそういない。森本瑠璃が只者ではないことだけは伝わったらしい。
「実は彼女の連絡先も知らない。知っているのは実家の住所だけ⋯⋯」
自分で言っていて悲しくなった。
森本瑠璃と甘い夜を過ごし、結婚する約束を交わした。一晩で体だけでなく、心も繋がったような感覚を残した忘れられない夜。経験した事がない夢のような時間だった。彼女の父親からの電話から察するに、俺と同じように過干渉な親に悩まされている。そんな彼女を救い出したいと俺は思っていた。
「連絡先も簡単に男性には教えないような奥ゆかしい方なのね。住所を知っているなら、手土産を持ってご実家にご挨拶に伺いなさい」
俺は女性に自分からアプローチした事はない。でも、森本瑠璃との恋は俺が動かないと進まない。
森本瑠璃の様子がいつもと違うと分かっていながら、彼女をお持ち帰りしてしまった夜。
俺はあの夜を「始まり」と捉えていたが、彼女は「ワンナイト」と呼んだ。そんな軽い気持ちではなく、真剣交際を考えている事を示す必要がある。
堅苦し過ぎるかもしれないが手土産を持って彼女の実家にご挨拶に伺う事にした。日本の結婚を前提とした伝統的な始め方に倣えば失礼には当たらない。俺は少し不安になりながらも、空港に行き森本家への手土産を買う事にした。