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第59話 拗らせ彼女の緊張感

 料理を一緒に作る事になり、やっとお説教から逃れラブラブできると期待した。気付けば窓の外は暗くなり始めている。冷蔵庫を開けるなり、森本瑠璃は庫内を真剣に見渡す。


「卵は冷蔵庫の開け閉めする場所には入れないでください」

「でも、ここに卵入れが⋯⋯」

「温度が変化しやすい場所です。移動すべきはエッグホルダーです」



 既にこの1時間で彼女の俺への評価は、かなり減点されている気がする。

(料理は得意なつもりだったが⋯⋯)


「今日は瑠璃のご飯が食べたいかな」

「お任せください。和食で良いですか?」

「楽しみ⋯⋯」


 俺はさらなる減点が怖くなった。俺も割と細かい方だと言われるが、彼女はもっと細かい。俺の色々な粗が目に余るだろう。


 空気清浄加湿器のタンクの水でも補充しようと、タンクを持ってキッチンに来る。水を出し始めたところで彼女のチェックが入った。


「加湿器の水は浄水ではなく原水を使ってください」

「なんで? 浄水の方が綺麗でしょ」

「水道水の方が塩素が含まれているので、水に雑菌が繁殖しずらいです」

「はい⋯⋯」


 俺は原水をタンクに補充し、空気清浄加湿器にセットするとリビングに戻った。

 森本瑠璃の仕事姿は美しくキビキビしていた。彼女はいつも完璧で周囲にも厳しい。

 俺の理想の女性。

 これだけしっかりしている彼女は頼れる奥さんになるだろう。


 デートをしている時も、彼女といると緊張した。しかし、それはフライトをしている時のような程よい緊張感。実際、一緒に生活するとなると、彼女のチェックが厳し過ぎてなんだか息が詰まる。


(一緒にいたい気持ちはあるんだけどな⋯⋯)



 俺はベッドで「毎日癒してあげる」と言ってくれたあの夜の彼女を思い出していた。守ってあげたくなるような癒し系でどこか弱々しい彼女。

(あの彼女は今も彼女の中にいるんだろうか?)


 気が付くとダイニングテーブルには旅館の夕食のような和食が並んでいた。

 あまりの手際が良さに、彼女の前で料理をして恥を晒さなくて良かったとホッとした。


「早いね。ありがとう」

「ふふっ、どうぞ召し上がってください」

 エプロンを取りながら微笑む彼女が美しい。


「いただきます!」

 初めての彼女の手料理の前で手を合わせる。煮物の人参を飾り切りするという余裕。

出汁をしっかり取ってあり、大根も面取りしてあるお味噌汁。


 彼女の仕事ぶりを見ても、なんでも突き詰めるタイプの人間だとは思っていた。

 そんな女性が理想だと思っていたのに、自分は彼女のような人間から見るとだらしなく見えるのではないかと不安に襲われる。


「美味しいな」

 正直、今まで食べたどの料理より美味しい。きっと彼女は料理人になろうと思えばその道を極めるのだろう。


 みっともない程に縋りついていた元カレは胃袋を掴まれていたのかもしれない。彼女と10年も付き合ってた元カレを思い出すと仄暗い嫉妬心が湧いてくる。


「お褒め頂きありがとうございます。食事担当に任命して頂けますか?」

「もちろん、でも、無理はしないで。瑠璃が疲れている時は俺が作るから」

 はにかんだような彼女が非常に可愛い。彼女の過去への嫉妬など吹っ飛んでしまう。俺が彼女をがっかりさせないような男になっていけば良いだけだと思えた。


 彼女の料理の美味しさに浸っていたら、突然彼女に声を掛けられた。


「私じゃ不満ですか?」

「えっ? 君が俺に不満なんじゃ」

 俺はきっと言葉の選択を間違えた。一緒に料理をすると言ったのに、彼女から離れたから不安にさせたかもしれない。これから一緒に暮らすのだから、カッコつけずに側にいるべきだった。


「可愛げがない⋯⋯一緒にいると疲れて、癒されない。こんな私は浮気されて当然ですよね⋯⋯」


 美味しい食事に夢中だったが、顔をあげると震える瞳をした瑠璃がいた。



「そんな事はないよ。ただ、少し俺の前では楽にして欲しいかな⋯⋯」

「一樹さんと寝たあの夜みたいに?」


 俺は思っても見ない彼女の問いかけに固まった。


「さっきから、私を通して誰を見てるんですか?」


 彼女の質問の意味が理解できないが、間違った答えをしてしまってはいけない事だけは分かった。


「瑠璃のことしか見てない」

「ふっ、あの夜の私はそんなに良かったんですか?」


正解が分からない問いかけ。瑠璃は苦しそうな顔をしている。


⋯⋯あの夜の瑠璃。


 甘く脳を溶かすような魔性の女。

 蕩けるような時間はくれるけれど、俺が愛おしいと思っているのは真面目でお堅いが故に苦労が多そうな目の前の女。

 後輩から厳し過ぎて疎まれても自分を曲げない芯が強い女性。


「私は、一樹さんにきっと振られるって言われました」

「誰に? 元カレ?」

 瑠璃が目をぎゅっと瞑って静かに頷く。


「やっぱり振られましたね。私と一緒に住むなんて無理でしょ。わ、私みたいな可愛げのない女と⋯⋯私だって、一樹さんだから好きだから好かれたい。でも、いざとなると、どうやって振る舞えば好かれるか分からないんです」


 掠れた声で呟くと、瑠璃はサッと自分の持ってきたスーツケースに近づいた。彼女から告げられた信じられないような言葉。彼女は俺を好きで、好かれようと振る舞っているつもりらしい。全くそうは見えないけれど、そんな不器用なところが愛おしい。

(そ、それよりも俺と終わりにしようとしている?)



「待って!」

俺は咄嗟に彼女を後ろから抱きしめた。


「本当にずっと好きだったんだ。あの夜の君は魅力的だったけれど、毎日あんなだったら俺は廃人になるよ。真面目過ぎて損してるような君が好きなんだ」


 思いのままを言葉にした後に後悔した。

 失礼な事を言って彼女の気分を害してしまったかもしれない。


 彼女は黙って俯いている。


「私、女としての魅力ないですよね。だから、さっきも押し倒したくせに急に冷めたような顔をして⋯⋯」


 必死に我慢した行動が彼女にそのように取られているとは思っても見なかった。


(もう、変な気を使わずに思いのままにいってしまえ)


 俺の中で吹っ切れた部分があり、彼女を反転させ深い口付けをする。

 彼女はただ目を丸くして氷のように固まっていた。


(俺の熱で溶かしてやる)


 俺は彼女を抱き上げベッドまで連れて行った。







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