「私と一樹さん。価値観が合わないかもしれませんね」
瑠璃は困ったような顔で呟くと、食洗機のスタートボタンを押してスーツケースに近寄って行った。
(待ってくれー!)
何がいけなかったのか全く分からなくて、俺は慌てて彼女を追いかけた。もはや、忌々しい彼女の元カレにどうやって彼女と10年も付き合ったのかご教授願いたい気分だ。俺は初めて追う恋をして一杯一杯になっていた。
俺は瑠璃を思いっきり後ろから抱きしめた。何が悪かったのかと思い直せば何もかも悪かった気さえする。
(でも、伝われ⋯⋯俺の気持ち)
「私、きっと良い奥さんにはなれません。専業主婦になる自信がないんです。CAではなくても仕事がしたいです。パートナーを癒す役目を果たせなくても、仕事をしてるからという言い訳が欲しい⋯⋯」
瑠璃の呟いた言葉に彼女の拗らせ具合が半端ない事を理解した。俺も相当拗らせている面倒な独身貴族。面倒な者同士で暮らしていくのは容易くはない。
(でも、俺は瑠璃がいい!)
「瑠璃が側にいてくれれば、俺は働いてくれても家にいてくれてもどっちでも良いんだ。専業主婦を強制している訳じゃないから、安心して」
今、俺が繰り出したのは会心の一撃なはずだ。
元カレは商社マン。海外駐在があれば彼女に仕事を辞めさせねばならない。しかし、俺は拗らせ瑠璃に選択肢を与えられる。
「そんなに私のことを思ってくれているのは、あの夜があったからですか?」
瑠璃が目に涙を浮かべている。
俺にとって夢のようだったあの夜。
ずっと好意を持っていた女性、森本瑠璃が甘く俺を誘った不思議な時間。
「違うよ。あの夜がなくても、俺は君の事をずっと気になっていた。正直、ドンピシャのルックスなんだ。見ているだけで、性格がどうでもよくなるくらい楽しい」
記憶がないと彼女が主張するあの夜の瑠璃を評価すべきではない。
その意識が強過ぎて、俺は失礼過ぎる本音をぶちまけてしまった。
(中身なんてどうでもいいって流石に怒るよな⋯⋯)
瑠璃が俺の発言に目を丸くしている。俺は咄嗟に逃げられないように彼女の手首を掴んだ。自分から寄り添う恋などしたことなかったかれど、俺は彼女に近づきたい。絶対に逃げられたくない。
「性格も好きになって貰うように努力しますね。私も一樹さんのルックスがドンピシャです。ちなみに私は一樹さんの性格や言葉選びのセンス、全てがツボで好きですよ!」
満面の笑みで言われた彼女を前に時が止まったような感覚を覚えた。
(ああ、本当に好きだ)
正直、女慣れなんてしてない。ルックスや社会的地位に、自分を作りながら寄ってくる女には辟易していた。目の前の女性は見てるだけで幸せになるような美しさで、可哀想なくらい不器用。彼女にあの夜のいかにも守ってあげたくなるような弱々しさはない。男なんていなくても一人で生きてけそうな程、出来るオーラを漂わせている女性。
「俺も瑠璃が好き! これから頑張るよ。君にもっと好きになって貰うように努力する」
35歳の男の言うセリフとは思えない幼い宣言をしながら、俺は力一杯瑠璃を抱きしめた。
「そういえば一樹さんはどうしてパイロットになろうと思ったんですか?」
いつになく柔らかい表情をしている瑠璃。
「昔から飛行機に乗るのが好きで、よくラジコンとか操縦してたんだ」
瑠璃の優しい表情に何故か甘えた気持ちになり、とんでもない子供っぽい志望動機を話してしまった。
(祖母がCAで航空業界に興味があってとか言えばよかった⋯⋯)
彼女がしっかりしている事もあり、彼女の前では年上の癖に着飾らない子供のようになってしまう。年上の余裕を見せて彼女を夢中にさせたいのに、目の前の成熟した女性は簡単には騙されてくれない。俺は子供っぽい自分を丸裸にされている気分。その時間は心地よいが、彼女が俺にがっかりしないかだけが心配だった。
「ふふっ、一樹さん。車の運転も上手でしたね」
瑠璃が微笑んでくれると、心に温かいものが流れ込んでくる。
「お褒めに預かりまして! じゃあ、これから沢山ドライブに連れてこうかな」
俺たちは2人でこれからどこに行きたいかを楽しく話しながら眠りについた。