「か、一樹は幸せですよ。これだけ、妻がしっかりしてるんですから」
私の同様に気がついたのか、すかさず園田社長がフォローする。
しかし、彼の目は泳いでいた。
彼の「一樹頑張れー! 嫁、神経質そうだなー」という心の声が聞こえてくるようだ。
今日は一樹さんが帰宅する日。私はフライトで疲れた彼を癒す妻であろうと決意し帰途についていた。
星空なんて見えない大都会。
マンションの前に到着すると、いるはずのない会いたくない人がいる。
冴島傑。
私と10年付き合っていた元カレ。
「瑠璃、お疲れ様」
結婚式でも一悶着あったのに、何事もなかったように近づいてくる彼が怖い。彼が自宅を知っているのは、結婚式の日、控え室前で聞き耳でもたてていたのだろう。
「冴島さん。本当に私の人生から消えて」
私は今仕事をしたい。仕事とはこんなにも認められてやりがいのあるものだと実感している。
そして、一樹さんと沢山過ごしたい。一樹さんと一緒にいると彼が本当に私を愛してくれているのが分かる。温かくて癒される瞬間。いつも彼に癒されているから、私は今日こそは自分が彼を癒したいと思っていた。
「瑠璃、結婚式のこと怒ってる? あれは美香ちゃんと佳奈ちゃんからそそのかれたんだ。俺はしっかりと時間をとって瑠璃と向き合いたいと思ってた」
「冴島さん、意味が分からない。私はもう冴島さんとの時間はいらない」
傑と向き合うマンションの夜。
ここが大都会六本木でよかったと心から思った。
同じマンションに住んでいても、私はここの住人を誰一人知らない。きっとそれは相手にとっても同じこと。
一樹さんは今日は仕事を終えているが成田終わり。国内線を飛んでいても例外的に成田終わりが存在する。名古屋→羽田というのは存在しない。新幹線に勝てないからだ。名古屋から成田に飛んで本日の業務終了。千葉なのに東京を名乗って良いのはネズミーランドのみ。私もCA時代、成田で解放される時は一度ロッカールームのある羽田に戻らなければならなくて地獄シフトだと思っていた。
一樹さんと冴島傑をもう会わせたくない。千葉と東京という同じ地上にいても、距離は離れていることに私は安心感を持っていた。
「瑠璃⋯⋯。結婚生活うまくいってる? 瑠璃は気難しい子だから、きっともう家庭内がギクシャクして崩壊し始めてるんじゃない?」
まるで名探偵のような表情で冴島傑が迫ってくる。家庭内は全くギクシャクしていない。同棲時代は多少緊張感はあったが今は一樹さんと気兼ねなく仲良くしている。
「崩壊なんてしていない。余計なお世話だよ。冴島さんはそろそろ海外駐在のタイミングなんじゃないの?」
「1ヶ月後にコートジボワールに行く。瑠璃も連れて行きたい」
私の手を握ろうとしてくる彼の手を叩く。コートジボワールの公用語はフランス語。彼が私を連れて行きたい理由が分かってしまった。おそらく結婚式の時にはコートジボワールに駐在する話があったのだろう。会社の公用語は英語でも、生活するにはフランス語が必要。彼は便利な通訳として私を欲してるだけ。一樹が熱烈に私を愛するせいか、冴島傑が私を愛する恋人ではなく将来使えそうな道具としてしか見ていなかったことに気がついてしまった。
「私を利用したいだけだよね。こんなことしている暇があったら、フランス語の勉強でもしたら?」
冴島傑は私をどこまでも惨めにさせる。彼と関わるたびに10年も付き合っていたのに、全く愛されてもいなかったと感じる。
「美香さんから聞いたよ。ホテルで良いように使われてるんだって。瑠璃がもったいないよ。コートジボワールなら瑠璃の能力を生かせる。お手伝いだって雇えるから、家でも仕事場でも酷使されるような生活とはおさらばできるよ」
彼の言葉に寒気がする。披露宴に彼の姿はなかった。美香は列席者の挨拶から一樹が園田リゾートホテルズの御曹司だと知った。義母が私を家業を手伝いたいと言ってくれる殊勝な嫁だと紹介した。それを都合のように捻じ曲げて冴島傑に伝え、また私を咎めようとしているのだろう。
「いい加減にして! 本当にこれ以上ガッカリさせないでよ。そんなにサポートが必要なら他の女でも調達したら。モテるって言ってたじゃない!」
冴島傑と私は10年もの時を一緒に過ごしてきた。楽しかった思い出も沢山あるのに全てが色褪せる。私は冴島傑が大手総合商社に就職した後は、料理を頑張った。駐妻はしょっちゅうポットラックパーティーをやると聞いて、彼が恥をかかないような見栄えの良い惣菜を作れるようにした。私と冴島傑は大学生から付き合い始めたのに、最初から結婚の話をよくしていた。それを私は真剣交際だと思っていたが、冴島傑は私を妻役には丁度良いと思っていただけなのかもしれない。恋とか愛とか彼との間に感じたことはなかった。