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第83話 彼の涙

 普段冷静沈着な一樹さんの声が震えている。よく見るとハンドルを持つてまで小刻みに震えている。運転中の刺激するような事を言うべきではないと、私の危機管理センサーが働いた。事故でも起こしたら、彼は全てを失いかけない。愚かで我が強く面倒な妻のせいで、彼の将来を閉ざしてはならない。


 マンションの駐車場に到着して、車を降りる。私は無言で歩く、一樹さんに付いて行った。


 玄関に入り、一樹さんが扉を閉める。

 すると急に体が宙に浮いた感覚。一樹さんが私を横抱きにしたのが分かった。

「ちょっと、降ろしてください。話し合いをするんですよね」


 見上げた一樹さんの顔が強張ってて怖い。そして、何も言ってくれなくて不安になる。


「私は離婚でいいです。もう、別れましょう」


 結婚しているのに連絡もなく、一晩異性の部屋で2人きりで過ごした。不貞行為を疑われて当然だ。私の「記憶がない」という言葉で、一樹さんの疑いが深まったのも感じた。


 寝室の扉が開くと甘い花の香りがした。

ベッドを見るとハート型に薔薇の花びらが飾ってある。

(これって⋯⋯)

 これは私が企画して今、評判になっている園田リゾートホテルズ東京の『ゼロ距離ハネムーンプラン』の1つだ。ホームページの宣伝画面を見て、真似して一樹さんが用意したのだろう。


「一樹さん、これ、ハネムーンの」

 一樹さんはそっと私を花びらのベッドの上に降ろす。その反動で、赤い薔薇の花びらが宙に舞う。漂う甘い香りと色づく世界。

(これは、ロマンチックだ)

「そうだよ⋯⋯朝、起きたら瑠璃がいなくて⋯⋯怒って出て行ったのかと思った。帰ってきたら仲直りしたくて⋯⋯」

 一樹さんの目に涙の膜が張っている。


「すみません。私、勝手に嫉妬して苛立ってしまって⋯⋯」

「嫉妬? 瑠璃が?」

 私は静かに頷く。自分が嫉妬していたのだと気がついた。可愛くない上に酷いヤキモチの妬き方。自分でも呆れる。


「他の女の子にご馳走したり、一緒にお酒飲んだり嫌です。一樹さんはモテるし⋯⋯」

 機長がご馳走してくれる時、CAたちは美味しいご飯目当て。既婚者相手に社内で不倫をしようなどとは思わない。経験上、過去に一度CAからもご飯代をとった機長がいた。驕りが当たり前と思っていない私でも引いてしまった。新人CAから見れば、パイロットは自分の10倍の給料を貰っている。そんな薄給の子から吸い上げれば当然噂になる。一樹さんの場合は100%奢っているだろう。彼は根っからのお坊ちゃま。それゆえの穏やかさには惹かれているが、お金に関しては非常に無頓着。お金がいくらでも出てくる打ち出の小槌が存在すると思ってそうな感じに最初は苛々した。


 でも、それは私のような拗らせたケチな細かい女だから。他の女の子は彼の大らかさや育ちの良さに惹かれるだろう。


 一樹さんなら結婚していても、話していたら本気で恋をしてしまいそうだ。ルックスも素敵だが、温和で優しく話していて楽しい。他の子が彼に恋をするのは嫌。電話の先にどんな子がいたのかは分からないが、ルリさんのような女子力の高い子がいたら敵わない。私は口では離婚を口にするが、彼と本当は離れたくない。結局、一樹さんから捨てられる前に、自分から離れようと傷つかないよう予防線を張っているだけ。


「俺は瑠璃にだけモテたいよ。もう、絶対飲み会になんか行かない。瑠璃を不安にさせたくない」


丸一日、私は彼を不安にさせた。それなのに、彼は私を気遣ってくれる。


「私、一樹さんを不安にさせましたよね。私、柏木店長とは何もないです。アラサーなのに二徹して疲れが溜まってたんだと思います。記憶はないんですけど、信じてくれますか?」


 じっと一樹さんを見つめると、そっと目を逸らされた。不安になり彼の顔を覗き込む。

(嘘⋯⋯泣いてる⋯⋯)

 一樹さんの目から一筋の涙が溢れていた。


「浮気しても良いよ。俺に暴力を振ってもいい。だから、もう離婚なんて言わないで。離婚って選択肢を瑠璃の中から消して欲しい。俺はずっと瑠璃と一緒にいたいんだ。強い瑠璃が大好きだ。本当は不器用で繊細なのに真っ直ぐ強くあろうとする君を守り続けたい」


 一樹さんの深い愛に感動すると同時に、浮気を疑意を払拭できていない事実に愕然とする。そして、私は周りからは何でもこなす器用な人間だと言われることが多い。傷つくことがあっても自分の中で隠す気の強さもある。おそらく私を不器用で繊細だと感じているのは一樹さんだけ。それは、彼が人に弱みを見せようとしない私をよく見ている証拠。気が強くて可愛げのない私を守りたいだなんて、私はこの男を手放せる気がしない。


「一樹さん。私、本当に浮気してません。私の事、信じられませんか?」

「信じてるよ。瑠璃は誠実な子で、浮気なんてしない。でも、記憶がない間、『魔性の瑠璃』の人格になってたかと思うと⋯⋯」


 一樹さんは私の二重人格を疑っている。一瞬、並行世界の事を話そうかと思ったが、その考えは首を振って振り払った。ルリさん自身は自分のことでいっぱいいっぱいで気がついていないが、あちらの世界の槇原真智子は認可されてない薬を勝手に持ち出している。それを無断で一般人であるルリさんに使用。相当な覚悟を持って行った槇原真智子の行動を、自分の失態の弁明の為に晒したくはない。


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