「もう、その人格になることはないです」
「記憶がないのに、どうしてそんな事が言えるんだ?」
「そもそも、柏木店長も付き合いのある会社の相手に手を出すような愚かな人ではないですよ」
私のことが信じられなくても浮気疑惑だけは払拭したい。
「どんな男でも『魔性の瑠璃』なら落とせるよ⋯⋯」
一樹さんが掠れた声で小さく呟く。
「本当に過労で寝入ってしまっただけです! 『魔性の瑠璃』は私が失恋のショックで作り出した人格なんですよね。なら、もう存在しません。私にとって冴島傑の存在など、既に時空の彼方です!」
私は勘違いされているのが嫌で、必死に一樹さんに訴える。一樹さんは目を伏せて、そっと薔薇の花びらを見ていた。
「一樹さん、ハネムーンプランのゼロ距離はダブルミーニングなんです。すぐそこのホテルでハネムーンしちゃおうと言う意味と、2人の距離をなくすという意味」
私の言葉に一樹さんが私の方をやっと見てくれる。私はゆっくりと微笑んだ。
「お風呂、一緒に入りましょうか。明るいところで私の体の隅々を点検してください。潔白を証明してみせます」
疑われたままなんて、絶対嫌。
こうなったら囚人になった気で看守に体を見せる。その後はフラワーバスでラブラブすれば良い。フラワーバスなら薔薇の花びらに目がいって、そんなに恥ずかしくないはずだ。
「瑠璃がそんな大胆な⋯⋯もしかして、今、2つの人格が融合した?」
ファンタジーな事を言っている一樹さんの手を引き、私はお風呂に連れて行った。予想通り、バスタブには薔薇の花びらが敷き詰めてある。
私は恥ずかしい気持ちより身の潔白を証明したい気持ちが勝った。そして、身の潔白が無事証明された後、私は羞恥に苦しんでいる。バスタブに一樹さんと2人。揺れる度に花びらの隙間からチラチラ体が見えるのが耐えられないくらい恥ずかしい。
「瑠璃、顔、真っ赤」
一樹さんが幸せそうに笑っていてホッとする。
「一樹さん、同棲期間から私にずっと寄り添ってくれましたね。今度は私が寄り添いたいと思います。何か私に要望があったら言ってください」
私は浮気されても一緒にいたいという一樹さんの気持ちに圧倒された。自分はそんな気持ちになることは、おそらく一生ない。一樹さんは細かくて面倒な私に今まで合わせてきた。結婚生活はお互い歩み寄って作っていくもの。
「離婚の選択肢をなくすこと、徹夜をしないこと。それと、そろそろ俺を呼び捨てにして敬語をやめて欲しいかな⋯⋯」
私に縋るような目つきをする一樹さん。
こんなに心が伝わる瞬間を私は知らない。
彼は拗らせていて可愛げのない私を愛してくれる稀有な人。
同棲期間で散々私にうんざりしているはずなのに、それでも私といたいと言ってくれる。
一樹さんのお願いを噛み締める。
ささやかな願いに胸が厚くなる。
それくらいの願いは当然叶えるつもりだ。
「一樹! 私も一生一緒にいたい! 不安にさせてごめんね! 大好き」
私の言葉に一樹さんが真っ赤になる。愛おしさが込み上げてきて自分でもはしたないかもしれないと思ったが私は思いっきり彼に抱きついた。
「瑠璃、本当に君って俺を惑わす魔性の女だな。不安になったのは俺が弱いから。これから瑠璃に釣り合うよう強い男になるよ」
「今のままで十分だよ。今度は私が寄り添いたいの」
彼の裸の胸に身を預けながら見上げた彼の顔は心配なくらい真っ赤。
「子供のこと。うちの親が急かしているようでごめん」
一樹から思わぬ言葉を貰う。
彼は私と違い割と頻繁に親と連絡をとっているようだ。
「葉酸サプリのこと聞いたの? 驚いたけど、嬉しい気持ちもあったよ。あのね、私のわがままだけど仕事をできるだけ休みたくない。子供なんて育てられるのかな?」
妊娠して出産する。
そこまでは想像ができる。
それでも、子供をお世話する想像ができない。
私が仕事を休むしか道筋がない気がする。
「えっと、母さんに預ければ良いんじゃないの? 暇なんだし」
一樹は本当に恵まれたお坊ちゃん。
私は思わず彼の頬を包んでぐりぐりした。
これは彼が私によくする仕草。
「お母様には自分の人生があるの! お忙しい多趣味な方でしょ。孫ができました。さあ、面倒見てって言われたら困るに決まってるわ」
おそらく義母が想定しているのは、孫ができたら偶に可愛がりたいという関係。
まさか自分がもう一度子育てをさせられるとは思っていない。私だったら、絶対嫌だ。自分で育てられない子なら産むなと返却してしまいそうだ。
「母さんの人生か。考えたことなかった。瑠璃は凄いな。そんなことまで考えられて⋯⋯」
「この甘えん坊のお坊ちゃんが! そんなことも何も、お前の母親のことだぞ! とにかく私たちの子なんだから、私たちが育てるのは当たり前。緊急時に手伝いを頼めるか相談して、昼間の預け先も確保できるかも考えないとね」
「計画的なところが瑠璃らしい」
「当然でしょ。行き当たりばったりが一番ダメ。あらゆる状況を想定して、どんな不測な事態にも対応できる環境が整ってから子供については考えないと!」
「なるほど、確かに。お互い初めてのことだしね」
私が一樹に抱きつきながら話す言葉を、彼は嬉しそうに聞いている。明るい場所で一糸纏わぬ体で抱きついて恥ずかしい。それでも、今は距離の縮まった瞬間を大事にしたい。2人の強い心臓の音が混ざり合う。どうやら私の企画した『ゼロ距離ハネムーンプラン』はバズーカ砲レベルの威力がある。
「瑠璃、我慢できない。子供、今、作っちゃう?」
先程、子供は育てるイメージが湧いてからと相談したばかり。それなのに甘えたように提案をしてくる一樹に私は古めかしくチョップした。
それから、私たちはのぼせるまでバスタブでこれからの家族計画について話し合った。